環境・情報

月刊ウォータービジョン 2月号

  • 環境・情報
  • 2016/06/04

平成成1年

2月号

 

あの時、21世紀は・・!?
♪こんにちは♪ ♪こんにちは♪

博物楽洒 NO.1
~何でも洒落で楽しもう~
人類の進歩と調和
HaraQ
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/haraq/

‐あの時、未来は元気だった
昭和45年(1970)3月から約半年間、アジアで初めて、万国博覧会が大阪で開かれた。この後日本では海洋博、科学博、花博と続くが、万博はこれだけである。入場者数は、延べ六四〇〇万人を数えた。
万国博覧会では、世界各国から産業や歴史、文化などの実物や映像、写真などを展示。ダイヤモンドを出品する国もあれば、熱帯魚や植物を持ってくる国もある。大阪万博では、アメリカの宇宙船アポロ十一号の宇宙飛行士が持ち帰った「月の石」が公開され人気を博した。
博覧会のテーマは「人類の進歩と調和」だった。テーマ館は岡本太郎が設計した「太陽の塔」。芸術作品でもあり、昭和四十年代を象徴する現代遺跡としても、今なお見る者にある感情を喚起させつづけている。子ども時分、意味もわからず覚えた「人類の進歩と調和」という言葉は、今なお呪文のように頭の中を駆け巡っている。
多くの参加パビリオンには知恵と工夫が凝らされ、各国がアイデアと技術を競い合った。高さで誇示したのはソ連、エアドーム式の平べったい建物で対抗したのはアメリカだった。未来志向のもの、民族的なパビリオンなど古今東西と言う感じだった。
その不思議いっぱいのパビリオンが広い会場に立ち並ぶなか、各館のパンフレットを集め、スタンプを押しまくったり、初めて見る外国人にサインをねだったりした。
会場内には縦横無尽にモノレールや動く歩道がめぐらされ、パビリオン群の異様なフォルムとともに、ここは未来都市を感じさせていた。
あの時二十一世紀は、バラ色だと思った。生活のすべてが便利になり、世界中の人と仲良くやっていける時代が来るのだと思わせてくれた。
大阪万国博覧会は、高度成長時代の最後の総仕上げであり、二十一世紀への未来に夢を抱かせてくれた最後の花火であった。
この翌年、日本が公害まみれであることを知り、オイルショック、「ノストラダムスの予言」の登場など、明るい未来が来ないことを悟った。
不安に満ちた世紀末であったが、思ったより無事に二十一世紀を迎えられるのが、夢のようである。
それにしても大阪万博、父から「あと一つだよ」といわれて、アメリカ館にしようか、住友童話館にしようか迷い、「月の石」のあるアメリカ館にした。が、翌年某博物館で見れた。やはり住友童話館にすればよかったと、三〇年経った今でも悔やんでいる。
(はらきゅー)

参考『まぼろし万国博覧会』
串間務著 一九九八年

山下好の人物紹介 NO.11
君は「山田 薫」を知っているか
~ご本尊様に聴いていただくつもりで・・~

常林寺の本堂で

たしかに「お寺の娘さん」とは伺っていたけれど、取材をした場所は本当に三島市常林寺。赤黒のチェックのワンピースに黒のカーディガン、胸のペンダントが似合う色白で、ショートカットの彼女は、なぜか白目がきれいだった。
先日の泉のまちコンサート「四季全曲」でバイオリニストのソロを演奏してくれた彼女の話が聴きたくて、取材をお願いをしたら快く引き受けてくれた。
お寺でバイオリン?と思ったが、話を聴くにつれて家族の音楽好きが伝わってきた。
2歳くらいからバイオリンを習い始め、夢はバイオリニストと、小1の文集にも書いていたらしい。遊ぶのは4時半までと決めていたし、友達も「薫はバイオリンがあるから、頑張ってね」と励ましてくれたという。
当時、彼女は人生を決める選択をしている。「ピアノとバイオリン、両方習うことはできない。どっちがいい?」の問いになんと「ピアノはやっている人が多いからバイオリンがいい」と答えてからバイオリン人生がスタートした。
ところで、お寺の娘で良かったことってある?と突然の質問をすると「ええ、敷地が広いので、周りを気にせず練習できたこと、私にとっては格好の練習場所なんです。御本尊様に聴いていただくつもりで・・・」と照れながら答えてくれたし「本堂は響かないから本物の音が聞こえるんですよ」と説明してくれた。
中学から不二聖心。「バイオリンを練習する時間が充分とれたし、素敵な学校でした。しかしこの頃から、バイオリンを江藤先生に教わりたいという気持ちが強くなってきたことも、事実なんです」と思い出しながら笑った。
私たちの入るスキがないほど「生活の軸がバイオリン中心でぶれていない」そう思わせてくれた。
しかし「人間、山田薫」に迫りたくて、恐る恐る訊ねてみた。「好きなものは?」「つけものや納豆などご飯の友。それから、いくらとお寿司」調子に乗って「嫌いなものは?」「えっと、椎茸、セロリ。両方ともにおいが強いものは駄目ですね」
雑談をしていると「今は、みんなの前で弾けるのが嬉しいですね。感じたままの感想を言ってくれた方が好きです」なるほど。「特に音楽を普段聴かない人が喜んでくれるのが嬉しいです」と目を輝かして話し始めてくれた。
ふと彼女はどんな男性が好きなんだろう?と関心を持った。「やっぱり尊敬できる人が好きですね。自分の目標を持っている人、ここだけは譲れないものを持っている人」またまた、なるほど。
「桐朋学園に入ってカルチャーショックでした。バイオリニストには簡単になれると思っていたら、私よりうまい人がゴロゴロ。高校3年間は追いつくのが精一杯でしたよ」と思い出しながら、当時を語ってくれた。「私は、のんびりした性格なんです、嫌なことはすぐ忘れる。もっと神経質になってみたい」と微笑みながらも、「ひとつひとつの音を大切にしたい」と自分に言い聞かせるように呟いた。
ソリストとして初めて演奏した「四季」。「嬉しいというより不安いっぱいでした。特に誰でも知っている曲を弾くのは難しいし、比較されちゃうだろうなと思いながらも、後ろの友達・先輩に支えられてなんとか度胸つけてもらいました」
「一生、音楽に関わっていきたいと思ってます。昨年、世界の子どもにワクチンを、のボランティアで、細川夫人と一緒にミャンマーに行って来たんですが、村の村長さんは大喜びだし、ボランティアをしにいって元気をもらってきました。こういうところで弾ける演奏家になりたい、と心から思いましたね。将来は、この人の演奏を聴きに行こう、といわれるような演奏家になりたいんです。書くのが作曲家、伝えるのが演奏家なんですよ」と自分の思いを熱く語ってくれた。「それから2001年春、小澤征爾氏率いる『オペラプロジェクト』に参加することになり、モーツァルトのオペラを勉強出来ることが最大の喜びなんです」と本当に嬉しそうだった。
最後に「山田さんにとって、バイオリンとは?」の質問には、暫く考えて「言葉では表現できないですね。小さい頃から無口な子どもだったから、祖父にバイオリンで話しているって言われたことがありました」きっと彼女の感情表現の一部なのだろうと感じながら、そして今後の活躍を期待しながら、楽しい取材を終えた。(やました このみ)

NPOアラカルト (その8)
「三島市民サロン」
丸山 遼

私は、昭和52年7月、30歳の時、家庭の事情で故郷三島の隣町『清水町』に移り住むことになった。18歳で三島を離れてから、東京、名古屋、津、清水市と十二年間転々とした後のことである。
地元に戻って、何故か地域のことを無性に知りたくて、『伊豆史談会』に入会し、鳥羽山瀚氏に教えを受けたり、三島市教育委員会の『成人大学』で地理学の峰田清一氏や野鳥観察の高橋節蔵氏のお話に感銘を受けていた。
こうした時期に三島で、市民による文化活動『三島市民サロン』が、伊伝ビル5階のホールで開催されていることを私が知ったのは、昭和54年のことでした。早速会員となり、民芸の宇野重吉や作家の桐島洋子、落語の立川談志等の講演を直に聴く機会を得ることができて、満ち足りた思いを抱いていた。
三島市民サロンは、昭和49年5月22日、作家の野阪昭如の講演会を初回に、昭和58年10月までの9年半の間に63回の講演会と40回の映画会、2回のコンサートを開催した。最後は、ジャーナリストの田原総一郎で幕を閉じたが、三島市民にとっては、終戦後の『庶民大学三島教室』と並ぶ市民による文化活動として、大切に記憶しておかなければならないものの一つである。
幸いにも、三島市民サロンの設立、運営に大きな役割を担った中川和郎氏が、このほど『小さなまちの「手造り文化
」―自分史の一部として』を出版。設立の経過や活動の概要等を公にしていただいたことはありがたいことである。
サロンが設立された昭和49年は、中川氏と事実上のサロン主宰者であった伊伝の村上信吾氏が共に44歳。代議士の秘書であった中川氏と立場は違っても、お互いに三島に生まれ、育ち、三島で何かをしたい思いを抱きつづけていた点は同じであった。それが昭和49年、伊伝本社ビルの新築にあたって、5階を多目的ホールにすることで、文化活動をする大きな夢を抱くことになった。
人生の転機は、幾つかあるが、四十代前半もその一つである。ウォーター・ビジョンの松浦理事長が、長沢郵便局2階にギャラリー「ポスタルサロン」作って、講演会活動をはじめたのも、44歳の時と聴いている。
三島市民サロンの設立趣旨は、「三島市民サロンのしおり」に残る。「市民のための明るく楽しいつどいの場―文化人の楽しい講演、古典落語や伝統話芸、名作映画の鑑賞等、心から豊かに、人の話が広がる楽しい集い―安らぎの場所、それが『三島市民サロン』です。きっと故郷の三島に高い文化の灯をともしつづけ、私たちの明日への道しるべとなると思う」と自信をもって謳っていた。
十年に及ぶ活動の中から、映画『わが街三島』を製作、『文芸三島』を創刊したことを思うと、「文化の灯」となったし、その後の「三島ゆうすい会」の設立を導いたことは、『私たちの明日への道しるべ』となったことも間違いないことである。
三島市民サロンは、まぎれもなく、NPO活動であった。願わくば、サロンの復興を望みたい。
(まるやま はるか)

竹の間 NO.4
「本の間」

竹田共生塾塾長 竹田恒泰
http://www.takenoma.com

人生の師匠といえる人物は何人かいるが、それ以上に僕の人生に大きい影響を与えているのが本である。 僕は小学生の時から本が大好きで、中学高校とかなりの本を読んだ。今でも講演料を受け取るたびに本屋へ行ってごっそりと本を買う。
本は紙に文字が印刷してあるだけのものであるが、それが人を興奮させたり、泣かせたり、読み手の人生を塗り替えてしまったりするし、社会を揺り動かしてしまうことすらある。「ペンは剣よりも強し」とはよくいったもので、そこに本の真価がある。立花隆の記事が時の首相田中角栄を退陣に追い込んだのは有名な話である。
一冊の本を書き上げるのは大変なことである。書き手の人生が乗る。一冊の本にはドラマがある。読み手はたった数時間を費やして読みきるだけで、その世界を共有できる。いわば時間の有効利用とでもいえよう。
その最たるものは人物記である。一人の人間が一生かけて経験することを、僕らは人物記を読むだけで疑似体験することができるのだ。これは人生何度も生まれ変わって経験することを一回で済ましてしまうほど時間の有効利用ではないか。
だから僕の人生の師匠は坂本竜馬であるし、上杉鷹山、勝海舟、福沢諭吉、宮本武蔵、ナポレオン、ガンジーであるといえる。人生の節目に来た時、「この題、竜馬ならどうやって解決するだろうか?」と、あたかも竜馬と知り合いであるかのように考えられる。自分の心の中に竜馬がいる。これも司馬遼太郎「竜馬がゆく」、武田鉄矢原作「おーい!竜馬」のお陰である。誰が書いてもいいわけではない、司馬遼太郎、武田鉄矢であるからいいのだ。彼の人生を投影しているからである。
僕の25年の生涯で衝撃的といえる本との出会いがいくつかあった。その内二つを紹介することにする。はじめは小学生の時に読んだ絵本で、ルイズ・アームストロング著「レモンをお金に変える法」。この本は主人公の男の子がレモネードのお店を出す物語で、ビジネスのドラマが面白おかしく綴られている。僕はこれを読んで将来は会社を作りたいと本気で思った。ぼくのビジネスに対する情熱はこのとき開花したのである。
次は中学生の時に読んだ童門冬ニの「上杉鷹山(上・下)」。ケネディーに「最も尊敬する歴史上の人物」といわしめた鷹山は、青年の時、最も貧しい藩である米沢藩の経営を任され、僅か十数年のうちに最も裕福な藩にのし上げていく。アメリカが建国される遥か以前に、「人民の、人民による、人民の為の政府」という考え方を発案実践した人物である。僕は読み終えて一人の人間が本当に世界を変えていくことができると確信し、以来壮大な夢を持ちつづけることになった。
どんな本と出会うかによって人生大きく変わる。以前本といえば高級品で庶民が入手するのは困難であった。ところが最近は本の価格が安く、誰でも欲しい本を入手できる。それはとても素敵なことではないだろうか。勝海舟が現代に生きていたらさぞ喜ぶことであろう。
(たけだ つねやす)

マナチャンの現像室 NO.2
「どっちがおいしい?」
水中写真家 鈴木明義
http://plaza.across.or.jp/~manatee/

クラゲは、カメやサカナたちの大好物です。私たちだって、クラゲ酢や梅クラゲにして、おいしい、おいしいと食べますよねぇ。それが今、カメの死因の大半が、クラゲとビニールを見分けることができなくて食べてしまい、死んでしまうというのです。
左右の写真を見比べて下さい。右がビニール、左がクラゲです。水中では私たち人間でも見分けがつきません。ここにも「ゴミ問題」があります。この写真で、なぜゴミを(特にビニール)捨ててはいけないか分かったでしょうか?ここは山奥だから。駐車場だから関係ないと思ったら大間違いです。雨・風によって川に流され、海にたどり着くのです。
だから明日からゴミを捨てないようにしましょうね。特にコンビニの袋を・・・・
(すずき あきよし)

大学生日記 NO.11
「今年のお正月」
日本大学国際関係学部4年 松岡 享子

最近この紙面で取り上げられたように、横浜に寿町という町がある。8月の寿夏祭りに続き、今年の正月は第27次越冬闘争に参加してきた。越冬とは文字どおリ「冬」をこえる戦いである。一人の餓死者、凍死、病死を防ぐためにプレハブ小屋が建ち、雑炊などの炊き出しがおこなわれる。今年は12月27日から1月9日の長丁場である。この「越冬」に今年はじめて参加した。
1月1日、寿町に潜入。すでにもちつき大会が始まっていてプレハブの前にはおっちゃん達が長蛇の列を組んでもちがつきあがるのを待っている。さっそくもちつき班に混じって動く ・隙を見て杵を取りへっぴり腰で降りおろすと周りから大笑いされる。「こうつくんだ」とおっちゃんから御指導を受けつつがんばる。夕方はプレハブ宿泊者にお弁当を配付する。そのあと支援する側、される側をこえた交流会が始まる。夜は夜でパトロールといって横浜駅周辺をみかんや熱々のスープを持っていって配って歩く。ただ配るだけでなくいろんな話をきく。そして「パト」から帰ってくると今度は三班体制で不寝番という寝ずの番をする。朝は早朝から炊き出しの準備のための大量の野菜の切り出しが待っている。このように結構体力勝負なのである。
このように私の2001年のスタートは寿で慌ただしく過ぎていったのである。そして第2日目は大量の野菜と共にはじまった。切っても切っても減らない野菜。200食をこえる食事を作るのだから当たりまえである。ふだんあまり料理をしない私でもこれだけ切れば だんだん調子も良くなってくる。しかしおっちゃん達の鮮やかな手さばきにはかなわない。そのあと朝のお弁当を配り終わるとすこし暇になった。ぷらぷらしてるとバリカン片手に準備している人を発見。どうやらこれから髪を切るらしい。去年からこういう奉仕活動があったらしく今年もこれからやるらしいのだ。さっそくやってみようと髪の毛がつかないように穴あきゴミ袋を頭からかぶり、バリカン片手にいざ丸坊主、あっそういえばバリカンって使ったこと無い、、、。こういうことは寿の人生経験豊かなおっちゃん達の方がよっぽど良く知っているのだ。周りからいろんな支持、やじを飛ばされ丸刈りにされているおっちゃんを不安にさせつつ、ばりばり坊主に刈っていく。こうやっていろんな体験をしながらだんだんと馴染んでいくと、顔見知りのおっちゃん達も数人できて私にとって離れがたい町となっていくのがだんだんわかる。一番嬉しかったことは、髪を切ってあげたおっちゃんに、髪を切ってもらってなんか明日も明るくなってきたよ、といわれたことだ。まったくド素人の私にそんなにいってもらえて嬉しかったというよりおどろいた。なんか役に立ってるんだなという実感が湧いてくる。
それにしてもここへ来るとほんとにいろんな人と出会える。路上で暮らすおっちゃん達ももちろんだが、ボランティアで全国から集まってくる人たちもかなり濃いのだ。なにかわけありの人、福祉を志す大学生、普通の高校生、様々である。そんななかでひとりとても仲良くなった人がいる。彼は青森からバイクで日本縦断中の19歳で横浜でバイクがこけてしまった。バイクを修理するにも一週間かかり、駅で時間を潰していたところ、パトロール中の人に拾われ寿にながれついたのだ。19歳とはとても思えない数々の修羅場をくぐり抜けてきているらしく、話すネタも面白い。妙に寿と馴染んでいて、思えば不思議な縁である。大学では味わえないいろんな人との交流を通して自分をよく考えはじめた。自分は何をしたいのか、どうしたいのか、ほんとはどうなりたいのか、最近考え中の大学4年の冬なのである。
(まつおか きょうこ)

ヴェトナム通信
(最終回)
伊藤和美

皆さん、お久しぶりです。無事、日本に戻ってきた  伊藤和美です。
日本に着いた時は、「ゲッ!マジで日本に帰ってきちゃったよ」っていうのが、正直な感想です。
今、卒論を書いています。題名はまだ決まってないんですが、ヴェトナム留学のことをエッセイ式にまとめようと思ってます。卒論を書きながら、自分の留学は一体何だったのか、何て事を改めて考えてます。まだその答えがみえてないんですよね~。だから、もちろん卒論も仕上がっていないわけです。
でも、総合的に見て、やっぱり行って良かったと思ってます。今までの自分の弱いところを見ることが出来たし。  日本にいる時は、わかっていながら見ないようにしてきた  自分の弱いところを、見ずにはいられない状況にしてもらってやっと乗り越えることができたように思います。  それに、ヴェトナムがもっともっと好きになりました。
ヴェトナムが好きという理由だけで留学をしてしまった私は、ヴェトナムが嫌いになったら、一体やっていけるのだろうか、何て不安もありましたが、行ってみたら、そんな心配、へのカッパ!ヴェトナム人の事もすっごく好きだし、あの蒸し暑いヴェトナムの地も大好きです。これからも、大好きなヴェトナムに何度でも足を運びたいと思ってます。
短い間でしたが、お付き合い頂きまして、ありがとうございました。
(いとう かずみ)

今泉鷲頭山岩トレ

今泉 良山

沼津市志下の交差点にスルガ銀行の駐車場がある。ここから鷲頭山の頂上がスックと立ち上がっているのがよく見える。その左斜面の中腹に、樹木を剥ぎ取ったように白っぽい岸壁が見えている。
5人は他のハイカーと明らかに違う大きなザックを背負って歩き出した。12月初めにしては、暖かすぎる陽射しに早くも、額に汗をにじませながら。これから始まる岩登りに期待と不安を抱きながら、若者のように会話を弾ませている。実はリーダーの今泉は、岩登りのリーダーをするのが初めてなのだが、不安を胸の中に仕舞い込んで表面は何食わぬ顔で歩いていた。志下峠への山道から、枝道を左に入ると岸壁を辿る道が続いている。判然としないその曲がり角には、木の枝にペットボトルがぶら下げられていた。初冬の山の土からは、あの独特の草いきれが感じられない。
昨日の午前中は雨模様だったが、午後からは天気が回復し田野で、岩はすっかり乾いていた。沼津の街並みの向こうに奥駿河湾の海が光り輝いていた。ここは山と海が一体となっていて、その中に人の心をやさしく包み込んでくれる。
ハーネスとの装置、エイトノットの結び方、これはヌンチャクなどと岩登り特有の説明を終えると、いざ岩へ。リーダーが上部にあるボルトにロープを掛けてくると、次はトップロープの方法で登り始める。ひとりは登り、他のひとりは地上で確保する。不安が夢中に変わり、上へとたどり着いたときは喜びに変わる。「ヤッタ」という達成感が何とも言えない甘美な世界に誘い込んでくれる。
山登りには花の稜線歩き以外ににも、多くの楽しみ方がある。
山に学び、山に遊ぶ、そして山に憩う。
山全体の魅力を思う存分味わってみたい。
ひとしきり下界の景色を眺めたら次は下降だ。懸垂下降用にロープを付け替えて、自分で岩を歩くように降りる。慣れてくると、これがまた面白い。トントンと足裏を軽く岩に打ちつけながら、スルスル滑るように降りる。見事地上に着いたとき、気分がすっとする。「終わったー!」と同時に「もう一度やりたーい」という気持ちが湧いてくる。
(いまいずみ りょうざん)

俳句

清水町徳倉 渡辺義明

寒林の
人の大きく見えにけり

何人かで寒林を見ている。裸木ばかりの雑木林。差し込む日ざしも薄く寒々としている。人に立ち混じりながら歩いているが、ともすると一人が遅れがちになる。別に気後れしているわけではないが、他の人たちが大きく見えるのである。

仁王像
虫除け剤を射たれけり

あわれな金剛力士ながら、仏と衆生を永久に譲るべく踏ん張っているのである。

賀状果つ
郵便受けを鳥覗き

元日以来毎日来ていた賀状がある日途絶える。誠に心さびしいものである。正月も終わったなぁという実感がある。郵便受を覗いている鳥は四十雀だろうか。いよいよ寒に入る気配だ。
(わたなべ よしあき)

糸電話

昨年末、巷ではベートーヴェンの「第九」で盛り上がっている中、清水町は「若者」が企画し5回目を迎えたイルミネーション、プロの演奏家を目指す桐朋学園の「学生等」十三人が約五〇分間立ちっぱなしで披露してくれたヴィヴァルディ「四季・全曲」の演奏、そしてリスの仮装や、おじゃ魔女どれみの仮装をした「幼児」の無邪気さに参加者もニコニコ顔であった「クリスマスソングを歌い隊」と、若い人のおかげで楽しい時間がもてた▲しかしそんな光景を見て大人がもっと盛り上げてあげたら、素敵なまちづくりが出来るのになぁと感じてしまった。長泉町は夏の「わくわくまつり」に代表されるように、町全体で盛り上げようというシステムが出来上がっている。しかし残念なことに清水町はまだまだ「若者笛吹けど、大人踊らず」の表現が相応しい状態ではなかろうか▲新世紀になったことだし、県下で一番若い町らしく活気ある町に向けて、どこにも負けない、そして若者の意見を取り入れた個性的なまちづくりをしたいと思う
(公務員パパ)


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作成日2001年5月28日