環境・情報

山下好の人物紹介

  • 環境・情報
  • 2016/06/06

 山下好の人物紹介
【平成12年4月号~平成13年6月号】


 

1 鈴木 明義 水中写真家
2 古川 佳恵 看護婦・元青年海外協力隊員
3 竹之内 修 三島市郷土資料館学芸員
4 杉山 枝美 旧ユーゴ・チェルノブイリNGO参加
5 加藤 友之・利余子夫妻 お弁当・お惣菜「クックママ」経営
6 宮武 直美 陶造形作家
7 桶谷(母)・林(娘)親子 介護支援デイサービス「おもとの家」運営
8 吉田 敬徳 吉田治療院(鍼・灸・あんま・マッサージ・指圧)
9 野村 諒子 夢アーティストを支える会
10 工藤 玲子 清水町体育館職員・ホッケー選手
11 山田 薫 バイオリニスト
12 日吉 康雄 測量士・元青年海外協力隊員
13 日吉 真澄 作曲家
14 吉田 成子 元高校教師
15 本郷 美津子 ピアニスト

 

NO.1
君は「鈴木 明義」を知っているか?
~写真をしていなければ家一軒建っているよ~

取材に使わせていただいた応接室には、体長1センチのキンギョハナダイの赤ちゃんが、水中写真とは思えない鮮やかさと、何百倍に拡大をされても見応えのあるピントの確かさを実感できる作品が飾られている。
「撮影・鈴木明義」。それだけでただ者でないことを知った。
彼は、写真と大瀬崎の魅力を話し始めた。銀行員がカメラマンになったのか、カメラマンが銀行員になったのか。私は、後者としか思えない何かを感じてしまった。

沼津市大瀬をこよなく愛し、今でも週2回の休みには、潜りに行くというので、ダイビングのついでに水中の魚たちを撮影するのかと思いきや、水中写真がとりたいが故に、ダイビングを始めた、と言い切った。
「大瀬はね、水中写真の学校なんです」と目を細めながら、世界で一番高いレベルの環境に満足の様子。「サンゴの北限だし、カメラを持ってそのままは入れる絶好のポイント。海の水は富士山とアルプスの栄養分たっぷりだし・・、なぜか落ちつくんです」彼の大瀬自慢は、まだまだ続いた。

話題を写真にすると、こんなエピソードが聴けた。一台百万くらいのカメラが、水中では髪の毛一本が原因でパーになる。何台駄目にしたことか。
「写真をしていなければ、家一軒は建っているよ」と微笑む顔は、充実感で満ち溢れていた。
なぜ、写真なの?という問いには、こう答えてくれた。
「いろいろな人がいろいろな方法で、社会に対して貢献している。私は写真を通して、環境悪化などの現実を人間の視覚に訴えてていきたい」
そう言い切った彼は、先ほどまで大瀬崎の魅力を楽しそうに語ってくれた彼とはちょっぴり違っていた。
「本当に地球環境は危機なんです。こんなに海が汚れているというメッセージを撮ってきます。だから北極近くのカナダまで確かめに行くんです」どうやら本気らしい。

この報告は4月1日のポスタルサロンの教養講座(詳細5面)でたっぷりしてくれる予定」お楽しみに。彼の人柄は、ホームページでも検索できる。本職の「中部銀行清水町支店」も銀行らしからぬ画面展開が楽しませてくれるし、環境問題をテーマに置きながら、環境悪化に一番影響を受けやすい「マナティ」が迎えてくれる鈴木さんのプライベートなホームぺージも、必見である。
是非一度、「中部銀行清水町支店」を訪れて欲しい。地元の人たちに開放された「待合いスペースのギャラリー」と、鈴木支店長をはじめとした行員の優しい笑顔が出迎えてくれるはずである。  (月刊ウォーター・ビジョン平成12年4月号 やました このみ)

■鈴木明義さんホームページ■
http://plaza.across.or.jp/~manatee/

NO.2
君は「古川 佳恵」を知っているか?
~私に出来たことは、清潔・不潔を教えること~


コートジボワール(アフリカ)で現地の村人と

清水町八幡在住で看護婦の彼女は、何年か前にNGOの一員としてソマリア・ナイロビで活躍していた、あの帽子をかぶっても日焼けして黒かった姿からは想像が出来ないほど、白く細くてきれいな指をしていた。意外だった。
子どもの頃から動物が好きでアフリカに行きたかった、と話してくれる彼女は、たまたま新聞で見たNGO団体、アフリカ教育基金の会に関心を示した。

それまで、タイやネパールに何度か訪れていたが、貧困の民を救おうとして持参した古着を、どう処理したらいいのかわからず、途方に暮れていた時、NGOに渡すと良いよ、とアドバイスされ、存在を知った、という。
「アフリカではなく、ヨーロッパには興味がないの?」という問いかけには、あっさり「ヨーロッパは日本にいるのとあまり変わらない。しかし、アフリカは違う」と言い切った。「貧乏なんだけれど、貧乏人ではないんです」そんな言葉が浮かんできた。「知らない人とでも挨拶が出来る、すぐに友達になれる」と、アフリカの体験を話す彼女の目は、なぜか輝いている。

最初のアフリカ行きを決めた時、一番驚いたのは東京で単身赴任だった父であり、一番心配してくれたのも父だった。「行くんだったら、帰ってくるな」と怒鳴られたんです、と、当時を思い出しながら、笑った。
私より貧乏なのに「おまえは私たちのために働いてくれているのだから・・」と精一杯のおもてなしをしてくれるアフリカ人が大好きのようだ。
2回目はコートジボアールに海外青年協力隊として参加。

この2回の体験で得たことは「自分の視野の狭さ、技術のなさを痛感したこと」だったという。ボランティアでいったのに、言葉も話せない、技術もない、何でおまえなんか来たんだと、随分外国人にいじめられたらしい。何度も日本に帰ろうと思ったが、全席指定のセスナ機の予約の取り方がわからなかったから、帰ってこれなかった、英語が話せたら人生が変わっていたかも、とあっけらかんに答えてくれた。

看護婦の彼女が、アフリカの人達のために、出来たこと。それは「怪我を治すことよりも、もっと大切なこと、怪我に対して清潔・不潔を教えること」だったという。何回も何回も教えても、包帯をはずしてしまい化膿し切開。その繰り返し。自分の言いたいことが理解して貰えなく悩んでいた時、ある女の子が四日くらいはずさず、ボロボロになった真っ黒な包帯をしてきた時、やっとわかってもらえた、と涙が出るくらい嬉しかったらしい。

これからのことは、まだ未定。チャンスがあれば、いつでも帰る、と言う。「帰る?」「はい、帰りたい」彼女の気持ちが伝わってきた。
「日本の寒さは耐えられない、カラオケ行っても歌える歌がない、普段はボーっとしているんです」という彼女。
「結婚はしたいし、子どもも欲しい。自分のやりたいことがある人が理想かな」と言いながらも「日本にいると自分が甘えちゃう、今の私は中途半端、もう少し自分を試してみたい」という彼女にエールを送りたい、と心から思って取材を終えた。
(月刊ウォーター・ビジョン平成12年5月号 やました このみ)

NO.3
君は「竹之内 修」を知っているか?
~私の人生、全て「たまたま」がつくんです~


三島市西小でミニ博物館を開設
児童に昔の道具を体験してもらう

ブルー系のワイシャツに、オシャレなベスト。なぜか袖をめくっている姿が、彼のファッションキーワードとなっいる。
そんな彼の仕事場は、三島郷土資料館。さらに清水町の町史編纂にも携わっている。見るからに歴史に詳しそう、と感じさせる雰囲気を漂わせている。

実は、彼は横浜出身。4年前突然韮山にやってきた。
どうやら、バリバリに働いていたらしい。そんな彼が、なぜ静岡県東部の韮山に移り住むことになったかは、のちほど紹介するとして、まずは単純に「なぜ、歴史に興味を持ったのか?」を尋ねると「仮面ライターの藤岡さんが出演していた、大河ドラマ「勝海舟」の「坂本龍馬」役がかっこよかったし、仮面ライダーが演じる歴史の人だから、きっと凄い人なんだろうな、と思ってました、と意外な歴史へのきっかけを話してくれた。
「あ、そういえば、私、自分の名前の由来がわかんないんです。名付け親のじいさんは何も言わずに死んじゃったし、小学校一年生の時、みんなの前で答えられなかったことを覚えている。その頃から、自分のルーツ探しには興味があった」と昔を振り返って、照れくさそうに笑った。

彼の関心事は、学生時代からボーイスカウト活動、短波放送、東ヨーロッパと多方面にわたる。特に、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー等の東ヨーロッパ大好き青年は、今までに社会主義時代から含めて六回も訪れているという。結構、マニアックである。
彼の人生を返る、大学の先生の台詞。「今の博物館 (陳列だけで) これでいいのですか?」で完全に目覚め、明治大学の政経学部在籍で、学芸員の資格を取った。
これは常識では考えられないコースである。「本当に朝から晩まで、人生の中で一番勉強をしたと思う」と、当時を思い出していた。
その後、國學院の史学科に編入。親にも相談せず、学費も昼間働いて通った。「大学も、自分の働いた金で行くといい、休講になると非常に腹が立つ」という。

その後は「博物館に勤めたい」という願望のために、各地を転々とする。
本屋に勤めた経験は、今でも「雑誌なら誰にも負けない」という自信につながっているようだ。しかし、24時間勤務はつらかった、地方に行けば、24時間はないだろうというのが、縁もゆかりもない韮山に移り住むことになった原因らしい。
歴史上、韮山は元気な人が多くいる。風水的には、エネルギーがあるのではないか、と真剣に考えている様子が伺える。

「私の人生、全て『たまたま』がつくんです」と語る彼のもう一面は、水族館大好き青年である。ある日、神奈川新聞で油壷マリンセンターにいるアシカの赤ちゃんに魅了される。それから毎週アシカを見に行った。次第に四頭のアシカの名前を覚え、見分けられるようになった。それからは国内、海外を問わず水族館めぐりをするようになった。やっぱり、マニアックである。
「魚の特性を生かした、お魚サーカスは面白いですよ」と無邪気に笑う。韮山に住んだ理由のひとつに「三津シーパラダイスが近い」が入っていたようだ。

話を歴史に戻し「今後の予定は?」の質問に対しては「世相史を研究していきたいと思っているんです。民俗のようなロングセラーではなく、風俗のような流行、言い換えればベストセラーをまとめていきたいんです、博物館の垣根を少しでも低くすることが私の役目なのかな、勿論、ライバルはディスにーランドですよ」とニヤっと笑った。
「博物館って、人間の再発見の場なんです」とまとめた彼は、この仕事を天命と感じ、楽しんでいるようである。
(月刊ウォーター・ビジョン平成12年6月号 やました このみ)

■竹之内修さんホームページ■
原久庵 懐かしの昭和レトロ 70年代特撮ヒーロー

NO.4
君は「杉山 枝美」を知っているか?
~身体の傷より、心のキズの大きさを感じました~

岩手県一関出身、二十五歳。
この紹介だと、相撲の呼び出しを想像させるが、私の前に現れたのは、ホテル・エルムリージェンシーの紺の制服にエンジのリボンが似合う、目のくりっとした女性だった。
えっ、この人が、本当にあの「チェルノブイリ」へ行って来たの?と疑いたくなるほど、予想に反した第一印象だったことをまず、読者に伝えておきたい。
まだ4月に結婚したばかりなんです、と照れくさそうに話し始めた彼女の薬指には真新しい結婚指輪が光っていた。現在、三島市梅名に在住。

取材前、チェルノブイリの悲惨さを訴えるのかと思ったが、違っていた。
チェルノブイリ原発事故は十四年前の1986年。彼女十一歳の時。
スタートは、それから数年後の中学3年生の夏休み。一関高専の教官をしていたお父さんにそっと話を切り出す。「一カ月、アメリカに行ってみたい」。駄目だと言われるのを覚悟で頼んだ答えは、なんと「行って来い、外から日本を見てこい」だった、とその時の様子を、思い出しながら話してくれた。
「英語は心配なかった?」の問いには「それが、中学英語で随分通じるんです」と、妙に嬉しそうだった。

中学時代は吹奏楽部、高校時代はラグビー部のマネージャー、どうやら憧れの先輩がいたらしい。そして大学。私立は駄目といわれていたけれど、ここしか受からなかったんです、と日本大学の国際関係学部に入学。(普通の人は、ここだってむずかしいことを、彼女は知っているのだろうか・・・)。
三島市や清水町の印象を尋ねると「しゃかしゃかしていないのがいいですね。都会でもなく、田舎でもなく、て感じです」という答えが返ってきた。

大学二カ月の休み、実家に戻るのはもったいない、と思った彼女は、一年生終わりの春休み、旧ユーゴスラビアへ、NGO国際ボランティアとして参加した。国際ボランティアといっても、やったことは、地雷とか銃弾にあたった子どもや老人の難民マッサージ。たぶん、スキンシップが目的だったと、記憶をたどりながら振り返った。しかし、「彼らは全然笑わない、たぶん小さい頃からのトラウマなんだろう。とにかく怖かった。攻撃的で、かみついてきた子どももいたんです」と当時を思い出し、その時初めて「身体の傷よりこころのキズの大きさ」を感じたと言う。

二年の夏休み、チェルノブイリへ行きたいと思ったとき、教官の父は「おお、そうか」だけで反対はされなかった。
今回は、日本文化を伝えるボランティア。なんと「治療」ではなく「保養」。彼女が伝えた日本文化は日本舞踊。しかも花笠音頭を三日間、教え続けた。
彼女は、三歳から高校卒業まで花柳流の日本舞踊を習っていたという。
習っている時は嫌だったけれど、こんなところで役に立ったと、はにかんでみせた。

話を聞くと、原発事故30キロ地点以内も、何も身に付けずに、雨で壊れた放射能探知機を持って入り込んでいる。それもタオルで口をふさいだだけで。(放射線はタオルも通すと思うよ)
その後、帰国してから検査もうけていない、とあっさり答えてくれた。

現地の写真もいっぱい撮ってきた、子ども達からも、いろいろなものをもらってきた、この体験を自分の中に暖めておくのはもったいないなぁ、と思っていたが、どうしたらいいのか、わからなかったらしい。

そんな時、勤務先でベトナム絵画展(四月下旬)が開催されていて、「へぇ、同じ様なことをやっている団体があるんだ」と早速問い合わせ。
「私、こんな体験をしてきたのですが、何か出来ませんか?」と。

攻撃的な子どもが、最後には離れなくなるほどなついてきた時の感情は、うまく言葉では表現できないという。「専門家でもない、学生の身分でもやれることは沢山ある」別にチェルノブイリだけでなく、どこでもいい、とにかくいろいろな経験を一人でも多くの学生にしてもらいたい」と心から感じている様子が伝わってきた。本当に説明はいらない。これこそ百聞は一見にしかずである、と強い口調で言い切った。

夢は「自分の経験を多くの人に伝えたい、そしてボランティアしたい人達に情報を与えたい」と説明してくれた。
彼女は、しっかり人の目を見て話すことが出来る、数少ない若い女性だった。(月刊ウォーター・ビジョン平成12年7月号 やました このみ)

NO.5
君は「加藤 友之・利余子夫妻」を知っているか?
~自分で作ったのもが人の口に入り
おいしいねって言われるのがうれしくて~


清水町堂庭のクックママ

杉山バラ園の裏通り?に、何とも小さなログハウスが目に付いた。
ここが、今回紹介する加藤さんのお店。手作りお弁当・惣菜の「クック ママ」。赤のTシャツにジーパン姿、そして人なつっこい笑顔で迎えてくれた。
今回は、私の人物紹介を読んで「是非、この人をとりあげて欲しい」という要望で実現した企画なので、やや緊張気味で話を聞き始めた。

昭和六十二年十一月十三日の金曜日、当時二十一歳の彼は、ホテル三軒分の酒を配達する途中、午前十一時ちょっと前、居眠り運転のトラックと正面衝突。心肺停止、五日間の昏睡状態という、助かったのが不思議くらいという生死をさまよう事故にあったことを静かに話し始めてくれた。骨盤骨折から始まり、両大腿骨骨折、両膝、左肘靭帯、両足首、とにかく下半身はめちゃくちゃだったらしい。

「今だから笑って言えるけれど・・」と側にいた奥さんが言い、「そうだよな」と彼が答えた。当時二十一歳の彼、二十歳の彼女は、一月に入籍、十一月に事故。両親や周りの人たちは、離婚すると考えていたらしい。(恥ずかしい話、私もそう思いたくなるような将来に不安をいっぱい抱えた悲惨さであった)確かに、つらいリハビリに耐え、奇跡とまで言われる回復を勝ち取った彼も凄い。

しかし今回だけは、朝から晩まで毎日看病をし、当時の日記が十冊以上はあります、とさらっと当時を振り返った奥さんの献身さに胸を打たれた。
友達が楽しいことばかりしている時、彼女は「お互いに頑張れ、頑張れ」と思い、「今日も一日頑張れた、きっと明日も頑張れる」と彼を励ましたという。
それは彼だけでなく、弱気になりそうな自分に対しても励ましていたのかも知れない。そんな二人が望んだのは「普通の生活がしたい」だった。

周りに励ましてくれる人がいた。なんとかそれに応えたい。そんな思いが多くの人と出逢わせ、彼らに勇気を与えたのだろう。
入院中のある日、手作りのシュウマイが加藤さんにもおすそわけされた。シュウマイといえば「崎陽軒」しか知らない、だから手作りがとても新鮮だったし、味も本当にうまかったんです、と思い出しながら語った。

自宅に戻ってもストレスを発散する事の無かった彼が、たまたま見たNHKの料理番組で「手作りシュウマイ」をやっていた。そういえばあの時のシュウマイ、うまかったな、とビデオに録画、見よう見まねで作ったシュウマイが大好評であった。

「自分で作ったものが人の口に入り、おいしいねって言われるのが嬉しくて・・」それから、彼の新たな挑戦が始まったのかもしれない。お姉さんの「おいしい、おいしい、あんたこれで商売できるよ」の一言は、彼にとって、とても大切な言葉だったようだ。
しかし、体調も落ちついてきて、職安に通うが「障害者不可」の文字は彼らに重くのしかかった事だろう。働く場所がなかった。「雇ってくれるところが無ければ自分でやるしかないだろう」そう心に決めてお弁当屋さんを始めることにしたまではよかった。しかし、さらに追い打ちを掛けるように、彼らに店舗を快く貸してくれる人がいなかった。

今度は「貸してくれるところが無ければ、自分で作るしかないだろう」と自宅前に冒頭の小さな小さなログハウス風の店舗を作った。
作るのは彼、配達・外商は彼女の役目、こうして二人三脚の小さな「手作りお弁当屋さん」が出来上がった。店名は「クッキング パパ」ならず「クック ママ」。

変わったことにこのお店、なぜかメニューがない。全て「日替わり」。目指すは「温かくなくても、おいしいお弁当」。
彼が作る「日替わり弁当」を楽しみにしているファンが増えているのは「これ、これ。昔、おふくろが作ってくれた味なんだ」という懐かしさと「食べ物だから、答えが返ってくる仕事がしたい」と張り切っている彼らとの味に対する思いが一致したからなんだと、思うことが出来た。

久しぶりに「夫婦」の言葉が似合う二人にあった気がする。凄い体験をした人物紹介とはちょっぴり違う、ほのぼのとした生活の大切さが感じられた。
取材をさせていただいた私たちの方が、なんだか勇気を与えられて帰路についたことをつけ加えて、ペンを置く事にする。  (月刊ウォーター・ビジョン平成12年8月号 やました このみ)

NO.6
君は「宮武 直美」を知っているか?
~どんなときも自分を表現する方法が必要になると思う
それが、今は土なんです~


アトリエpoyapoyaにて

自然大好き、友達大好き、自分大好き。27歳、陶造形作家。ディズニーランドをこよなく愛し、「全てが楽しく」をライフスタイルの中心に据えて、輝いている女性。取材を終えて、メモを見ながら書き出した彼女の印象である。

「こんにちわ」とアトリエのドアを開くと、屈託のない笑顔で「どうぞ」と迎えてくれた。黒のTシャツに、デニムのエプロン、そしてたぶん自作と思われる青いピアスをしていた彼女の口からは、何度となく「ディズニーランド」の単語が飛び出してくる。
その前に、ちょっぴり彼女から聞いた思い出話を紹介したい。

小さい頃の夢は「パン屋さん」になることだったという。たぶんこの頃から、モノをつくり、人に喜ばれることの快感を知っていたのかも知れないと、私は思った。「そういえば小さい頃、沼津の西武の本館7階催事場で、ろくろをずっと見ていた思い出があります」なんて、楽しそうに話してくれたし「今でも、人の手の動きを見るのが好きなんです」と自分の変わっているところを自慢げに話してくれる姿は、とても可愛かった。
陶芸との本格的出逢いは、女子美術大学工芸科に入学してから。やりたかった「染専攻」「織専攻」は1年の基礎課程でしっくりこなかったけれど、「陶芸専攻」が自分にはすっきりしてましたね、と思い出しながら語ってくれた。

彼女をモノづくりに夢中にさせてしまった原因のひとつに、ウォルト・ディズニーの世界がある。「自分の作ったもので、みんなの心が温まってくれるといいなぁ」とつぶやいた台詞がそれを物語っている。
「始まりは、ディズニーランドの空間演出をしたかった。色合い・デザイン全てが好き」と熱く語り、土日だけ掃除のアルバイトをしていたことも告白してくれた。

いまでも月に一度は、休日を利用して出かけているという彼女が羨ましかったし、眩しかった。
大学卒業後も「モノをつくっていたい、土から離れるのが嫌」を理由に、茨城県笠間市にある、先生の自宅のアシスタントに入り3年を過ごすことになる。
先生は抽象的作品、私は具象も作るというスタンスで修行、そして昨年8月、そろそろ独立したいなぁ、と思うようになり、帰静を決めた。
書き忘れたが、岡村記念病院から旧道に向かう細い道、「TUCHIYA」と書かれた建物の2階に活動拠点の「アトリエ poyapoya」がある。「 ポヤポヤ生きていたいから」が命名の由来らしいが、彼女独特のイメージで「笑って生きれれば、いいのにね、毎日を楽しく」という生き方のコンセプトが感じられる。

これからどうしたいの?の問いには「今は、自分探しをしている状態なんです。自分で始めて1年、すごくメジャーになろうとは思っていないけれど、作品発表は東京、と考えています。だけど、まだ自分に勇気がないんでしょうね」と自己分析をしたあと「怖がってはいけない、自分を大きくするには中央(東京)でやりなさい」って先生にもよくいわれるんです、と苦笑いをした。

なぜ、戻ってきたの?って聞かれたら「ディズニーランドと同じくらい好きな、柿田川から離れたくないから」って答えるらしい。
「だって、柿田川はきれいだし、疲れがとれるでしょ」と続けながらも、私が柿田川に入って遊んだ頃の話をすると、今までで一番大きな声で「ずる~い、私たちは柿田川では遊んではいけません、って教えられていたんです」と真剣な顔をしていた。自然が大好きで、時間があれば畑いじり、土いじりをしていたいと微笑む彼女の好きなタイプの男性は「自分のやりたいことをもっている人」。わかるような気がした。

あえて他の人の作品を見ないという彼女の創作意欲、インタビューをしているときの目の力、そして、ホームアシスト(エンチョー)に一日中いてもいい、という旺盛な好奇心、どれをとっても元気である。」

「どんなときも、自分を表現する方法が必要になると思う。それが、今は土なんです」とさらっと言ってのけた彼女は、全てがプラス思考で、一緒にいると「元気の素」をいただける。陶芸に興味が無くても、一度は彼女のアトリエを覗いて欲しい。
「工房ではなくアトリエ、職人ではなく作家、陶芸ではなく陶造形」とひとつ一つにこだわりを持つ彼女が、笑顔で迎えてくれるはずである。
(月刊ウォーター・ビジョン平成12年9月号 やました このみ)

NO.7
君は「桶谷(母)・林(娘)親子」を知っているか?
~お年寄の人生を、豊かにするお手伝いをしたい~


「おもとの家」の前で

三島市の体育館を過ぎ、光ヶ丘に向かう途中、キミサワやサークルK、くすりのウィズに囲まれるように、民家を利用した「ライフサポート三島」はある。訪ねた玄関には「今日も元気で」と書かれたミニ黒板のメッセージが迎えてくれた。

今回の主役は、お年寄りの「人生を豊かにするお手伝い」をしたい、と頑張っている親子である。母の夢を娘がサポートしていると表現した方がよい。最初にお相手してくれたのは、娘の林さん。 髪をアップにし、笑顔が似合う彼女は「どうして金にもならない事を・・」と聞いた途端、「ねぇ~」と大きな声で笑い出した。

「オープンは6月20日、職員は常勤4名、非常勤3名、計6~7名のスタッフ」と概略をてきぱきと話してくれたわりには、きっかけを尋ねると「母が・・」とゆっくり思い出しながら話してくれた。
「5年間、有料老人ホームで働いていた母が、お年寄りを日中お預かりしてこういうことをしたい、という話を聞いて、ふ~ん、頑張れば、と言った手前、私も手伝うよ、ってことになっちゃったんです。というより、危なっかしくて一人ではやらせられないなと思っていました」
そんな話を聞いていたら、接客が終わり母桶谷さん登場。

私たちを見てあわてて名刺を探すがみつからない、それを見て笑い転げる娘さん。「まったく」といいながらも、母の話を嬉しそうに聞く光景はほのぼのとしていた。
「おもとの家」という名前は?の問いには「前に住んでいた人がいっぱい育てていた万年青(おもと)。お年寄りが、いつでも若々しく元気いっぱいだったらいいなって思って」、と答えてくれた。

5年の職場体験で感じたことは?「至れり尽くせりなのに、なぜか楽しそうでない」と「普通にさせてあげればいいのにね、だった」と当時を振り返りながら「それくらいなら私にも出来るのかな」とこの事業を考えたことを話してくれた。間髪入れずに「ねぇ、すごく短絡的でしょ、あはは」と娘の林さん。とても良いコンビである。
お年寄りの大半は「普通の生活に戻りたい」という。「どうして?」と聞き返すと理由は「家に帰りたい、家族に会いたい、自然に触れたり散歩したい」という単純なものだった。

「こんな形でケアされたら喜ぶんじゃないのかな」という想いがどんどん膨らんで、ここまで来てしまったということらしい。
ついでに「なぜ介護にはまっちゃったの?」と図々しく聞いてみた。
「う~ん、人間を扱っているからかな。特に赤ちゃんではなく、老人だから。人生の荒波を乗り越えてきた人たちなのに、老後があまりにもさびしくて」。「お年寄りのサポートの仕方は、ひとつではないと思うんです。いろいろあって良いはずですよね。だから、ここでは介護する場ではなく、あれもやってみたい、これもやってみたい、というお年寄りの夢を実現させる場として考えています」なるほど。

恐る恐る「普段はどんなことをやっているんですか?」と尋ねてみた。「えっと、カラオケ・麻雀・手芸・ぬいぐるみ・トランプ・花札とか、いろいろです。特に麻雀とか花札には夢中で、点棒で遊んでいるのに、今日は勝ったからおごるよ、とか負けたから焼き鳥おごって・・なんて普段、上品なお年寄りが目を輝かしているのをみるとなんだか嬉しくてね」。この間は百円均一ショップに行ってみたい、ということになって、みんなで見学ツアーに出かけました。楽しかったですよ。今度は買い物かごを押して、ゆっくりスーパーで買い物をしてみたい、というんです。

日・祝日・年末・年始が休み、定員10名。儲ける必要はないけれど、あっちこっちに作って目指すところはグループホーム。「最後は一緒に住みたい」でまとめてくれた。
「見た目の介護ではない、みんなが明るくなる場を、多くの人に知ってもらいたい」と話していると「ただいま~」と訪れたお年寄りの声。私も、おもとの家の家族になりたくなった瞬間であった。
(月刊ウォーター・ビジョン平成12年10月号 やました このみ)

NO.8
君は「吉田 敬徳」を知っているか?
~私は人寄せパンダでいいんです~


清水町徳倉の吉田治療院にて

休診の木曜日の夕方、白のポロシャツとGパン姿で、私たちを診療室に迎え入れてくれた彼は、おみやげに持っていった簡易点字マシーンを、指で形を確認しながら、もう夢中になっている。まるで姿は好奇心旺盛な子どものようだった。
少し雑談をしていると「もうすぐ5時です」と時計がしゃべった。そうだ、彼は「中途失明の視覚障害者」なんだと気付き、話を聞き始めた。

昭和47年頃、建築・土木関係者は引っ張りだこ、若干18歳で現場監督を経験したという。その後、清水町役場に奉職。建設課や総務課で公務員をしていた22歳の時、突如「ベーチェット病」が身体を襲った。10万人に1人といわれる原因不明の病気、何度も入退院を繰り返し、最長14ヶ月の入院を経験した。見えなくなる恐怖に怯え、死ぬことしか考えなかったね、と当時を思い出しながらも、死ぬためにため込んだ睡眠薬がばれて、以後、薬を呑み込むまで看護婦が帰らなくてね、と笑いながら話してくれた。同室の老人性白内障患者は、年寄りのくせに手術して直ると、他人の気持ちも考えず「見えた・見えた」と大喜びをするんだよ、窓からつき落としたくなったね、とまたまた笑った。一番つらかったのは「恨むところがなかった事。遺伝なら親を恨める、事故なら加害者を恨める。しかし、突然の病気だったから・・」と静かに当時を語ってくれる顔には暗さが微塵もない。

転機は帝京大学病院で、15歳くらいの中高生が、自分より重い病気なのに「すごく元気で明るく看護婦と話していた光景」からはじまった。「こういう子もいるんだなぁ、俺も頑張ってみようかな」。そう心に決めたという。

その後29歳、浜松盲学校で、針灸マッサージの資格をとって開業に踏み切った。吉田さんは、今でも白い杖をたよりに町中を歩いている。しかし、視覚障害者の多くは「自分が障害者だとアピールすることになるから」と白い杖を持ちたがらないらしい。彼も杖を持たずに歩き、2~3回ひかれそうになった経験がある。そんな時「ひいちゃった方が可愛そうだなぁ」と感じ、白い杖を持つことに抵抗がなくなった、と説明してくれた。

彼のコレクションはホチキス。「打ってある(表・裏)、打ってない」これだけで3つは区別が出来るんだよと得意げに話してくれた。そのうち形が面白いとか、集めだしたら今は50種類くらい。根っからの凝り性かもしれない。

年に一度出かけるというサイパン旅行についても、理由を伺った。「外国はね、本当に障害者にやさしいんだ。ある時、トイレにいったら、いつまでも視線を感じるのでおかしいと思ったら、黒人と白人が私の用足しを待っていてくれた。手を洗え、紙はここだ、外で誰か待っているのか?と訊ねてきた。彼らに連れられて歩いても全然怖くなかったんだ。なぜなら、彼らは日常でそれをやっているんだな、と気付いたよ。障害者を見たら必ず声を掛ける。メイナイヘルプユー、と。日本人はもっと簡単なこともできないでしょ。例えば障害者用の駐車スペース、いわゆるゼブラゾーン。日本は健常者が平気で停める。しかし外国は自分が路上駐車でつかまっても、ゼブラゾーンは必ずあけておくんだ」

そんな意識の違いをみんなに伝えたいのかな、と取材しながら考えていたら「でも先日、日本でトイレに困っていたら、20代の若者が、私でよければと連れていってくれた。慣れてない人に誘導されると怖いんだけど、それが不思議と怖くなくてね。彼はきっと何回も経験してるんだなってわかったよ。一番怖いのは50歳前後の女性かな・・・あはは」と笑い飛ばしてくれた。

7年前から福祉センターでは朗読ボランティアをしているし、夏休みには点字の講座なども担当し、まちづくりにも一役かってくれている。そこで、吉田さんはいろいろなところへ出かけていますよね、と訊ねると「私はね、人寄せパンダでいいと思ってるんだ。そういう人がいるということに気付いてくれればそれでいい。視覚障害者が、ああいうことをしている、こういうことをしている、そして針灸で頑張っていることを伝えたいんだ」とさらっと答えてくれた笑顔が忘れられない。

人より1.5倍は敏感になったという聴覚。ギターやお琴も演奏できる。見えなくなってから始めたピアノを、また近々始めたいという。日曜日のラジオ「電話子ども相談室」が大好きという彼は、私の知っている誰よりも好奇心が強く、周りの人を楽しませてくれる話術を持っていた。
面白いモノがいっぱい詰まった吉田治療院、失礼ながら「本当に視覚障害なんですか?」と聞き直したくなるほど、楽しい取材であった。
(月刊ウォーター・ビジョン平成12年11月号 やました このみ)

NO.9
君は「野村 諒子」を知っているか?
~私たちの方が元気もらっているのよね~


第3回ベトナム民族音楽祭で

私のまわりで、こんなに精力的に活動している女性は見たことがない。それが、最近の彼女に対する正直な感想である。思ったこと、感じたことを、必ず実現するまでやり続けるパワー。その元気の源を知りたくて、取材をお願いした。

取材内容をそのまま書き綴ると、ページが何枚あってもたりないくらい。そこで、人間「野村諒子」にスポットをあてて紹介したいと思う。
転勤族の銀行員をご主人に持ち「引越は今までに七回。80個の段ボールを一晩で片づける技術を身につけちゃった」彼女はくったくなく笑った。「ねぇ、人生を変えた出来事を教えてくださいよ」という私の質問に、ちょっぴり腕組みをしながら「う~ん」と考えるポーズをした。彼女がこのポーズを取るときは、もう答えを持っていることを私は知っている。

「現在は子ども3人、だけど4回出産したのね。うん、2番目の子どもを、おもちゃの事故で亡くしたの。結婚して28歳までに子どもを生んで・・本当に幸せだった。そう思った翌日、子どものおしゃぶりが原因で・・・」「その時から、一生、幸せという言葉を言わないって誓ったの」
しかし、彼女の人生はこの事件をきっかけに前向きになった。「なぜ危険なものがお店で売られているの?、次の犠牲者を出したくなかったし」消費生活センターに相談したり、日経新聞の家庭欄(全国版)に、危険なおもちゃの写真入りで取り上げてもらったり。そして、遂におしゃぶりの大きさに規制が出来たらしい。彼女はそこで、自分の活動に間違いがなかったことを感じ、主婦の地道な活動でも社会の為になることを実感できたという。

もうひとつの人生の転機は2年前に、仲が良かった同じ年齢の女性が癌で亡くなったこと。
「まだ生きたいと言っていた彼女。あと5年でいいから生きたい、そういってから半年で亡くなってしまったのね」もしかしたら私だって、そう思ったら、生きてるだけでもうけもの。一日、一日、やりたいことをしようって心に決めたという。
それからの彼女は、毎週日曜日、三ヶ月間、メンタルケア協会認定の精神対話士の資格を取りに東京へ出かけた。全国から集まる三百人の受講生。沖縄から飛行機で、京都・仙台・長野から新幹線で駆けつけるそのパワーを肌で感じた。そこで得た知識を、もっと近くで発揮したいと思いながら始めた活動が最近、いろいろな方面で、評価されている。

「夢アーティストを育てる会について、教えてください」という私の問いには、「育てる会ではなくて、支える会です」ときっぱりと言い返されてしまった。精神障害者の「やすのりバンド」は音楽で、そして「パレット会」は絵画。彼らが外に向けて発表することで自信を取り戻して欲しいと思って始めたことで「彼らには能力がある。芸術を通して、自立していくお手伝いをしよう」というのがどうやら本音のようだ。「しかし私たちの方が元気をもらっているよね」と嬉しそうに話してくれた。「最近、いいなぁ、これって感じるようになりました」と目を輝かしてくれた。

そんなボランティアの活動が認められ、今回「静岡県福祉のまちづくり賞(活動の部)」を県知事から戴いた。地道な活動は必ず認められることを、彼女はまたまた実感することとなった。
「三島市中郷プラザを利用した、中郷まちづくりカレッジ」については「子育てしている女性たちの生きがいづくり、月一回でもいいから外にでようよ」を合い言葉に「三十代の社会参加のきっかけづくり」をしたかったようだ。これも、自分たちの活動を紹介しあう場所になって欲しい、と願う彼女らしい活動である。

最後に「これからやりたいことは?」と聴くとまたまた、例の腕組みをした。きっともう考えているに違いないと思っていたら「三島アメニティ大百科」づくりで、せっかく仲良くなった、大学生から70代までの人たちと何かをやりたいという。きっとそのうち、こんなことしたい、あんなことお手伝いしたい、と言い出すに違いない。

みんな何かをやりたがっている。私はその声掛け役をしているだけ、といいたげな彼女は、声を掛ければ集まることを、経験から知っている。
取材をして気付いたことは、彼女の奥底に流れているのは、亡くなった友達が家族・親戚・みんなに、ありがとう、ありがとうと言って死んでいった事実。私も、この言葉を残せるような生き方をしたい、という強い信念である気がした。「子育てはこどもにありがとう、ボランティアは障害者にありがとう」という自分を成長させてくれた人たちに感謝を忘れていない。ショートカット・ロングのワンピースが、彼女の定番のファッション。見かけたら声をかけてみてはいかが?   (月刊ウォーター・ビジョン平成12年12月号 やました このみ)

NO.10
君は「工藤 玲子」を知っているか?
~表に出ない優しさをもっている人が好き~


清水町体育館で

「ねぇ、取材させて・・」「えっ、私のですか?」「そう、頑張っている人を記事にしたくて」「てへへ・・」その照れくさそうな、そして屈託のない笑顔が彼女の魅力である。清水町の体育協会の事務局を勤めながら、平成15年清水町で開催される国体種目、ホッケーの普及に夢中である彼女は、なかなかの頑張り屋さんである。

グレーのトレーナーに、ジャージとは違うシャカと呼ばれるナイキの黒。「シャカシャカしているから」と説明をする姿に説得力がある。トレーナーの前面にはホッケーのプリント。ホッケー娘ここに参上。めちゃめちゃ明るい彼女はおじさん達?の人気者である。
「実は私、神戸生まれなんです」といいながら「一歳半、親の転勤で富士市へ引っ越してきました」と手短にプロフィールを語り始め「双子座のO型、ぎゃはは」と続けた。「小学校はソフトボール、中学校はバレーボール、高校はハンドボール、そして大学ではホッケー。球技は大好きですね。それにひきかえ、水泳、器械体操などはからっきし駄目なんです」運動神経もあるけれど、仲間と仲良くできるスポーツがお気に入りのようだ。本当は寂しがり屋かも。

「そういえば・・・」と彼女のスポーツ秘話が始まった。もう言いたくて言いたくて、うずうずしているように見えたのは私の錯覚だろうか。「小学校の時、ソフトボール投げが得意でね、市の記録会でも新記録達成だったのに、喜びすぎて円の前から出てあえなくファール。ぎゃはは」「大学の時、水泳の授業でバタフライをしていたら、先生に溺れていると勘違いされ助けられた。全然前に進んでなかったらしいんです、おやおや」自分で話して自分で笑い転げる。典型的な双子座のO型だね、やっぱり。

大学は中京大学体育学部健康教育学科。体育系というより、人々の健康を考えてあげたい、そんな思いで大学に進んだという。卒論のテーマは「成人病、過労死から見受けられる労働者の健康障害」、うむ、工藤玲子、ただ者ではない。
ホッケーは「初心者歓迎」の部員募集につられて入ったというから、よくわからないが、負けず嫌いな性格が功を奏し、がむしゃらに練習をして、初心者なのに二年生からポジションを与えられたというから、たいしたものである。

卒業後、高校の教員採用試験をめざしながら、地元に就職したという。おいしい給食にひかれ、中学校教諭も悪くないな、迷ったという話も彼女らしい。
「清水町から、ホッケー普及のお手伝いをしてくれないか、という誘いを受けた時は正直考えましたよ。しかし、国体に携われるのは人生でそうあることではないし、今しか出来ないことをやるのが一番いいことだよ、という母の助言が決め手となりました」と真面目な彼女の一面が顔を出した。
「もっとプライベートなことを聴きたいんだけれど・・」と切り返すと「私の趣味はバーベキュー、夏は自宅の庭でもやるんです。マイ七厘、持っているんですよ、きゃ!」「好きな男性のタイプは?」「う~ん、いゃあ~、いろいろ。清潔な人、それと表に出さない優しさを持っている人かな」「優しい人とは違うの?」「それが違うんですよ。友達にも理解してもらえないけれど、微妙な違いがあるんです、あは」やっぱりよくわからない。

好きな食べ物はマカロニサラダ、しらす、そして豚汁。嫌いな食べ物は、しじみやあさり、サザエなどの貝類、そして、まるごと椎茸。大きい椎茸をおいしいって食べる人が信じられな~い、という私と意気投合してしまったのは言うまでもない。
「図書司書から、高校教員免許、バランス整体操指導者まで」と密かな資格マニアでもある彼女は、好奇心旺盛・富士市からの片道25キロを苦もなく通う元気印の26歳。静岡国体にはホッケー選手としても活躍したいと張り切る姿は、ついつい応援してしまいたくなる何かを秘めている。

一度、体育館入り口にある、体育協会事務室をノックしてみよう。意外と照れ屋で真面目な彼女が、加藤茶の真似をして出てくるかも知れない。あはは。 (月刊ウォーター・ビジョン平成13年1月号 やました このみ)

NO.11
君は「山田 薫」を知っているか?
~ご本尊様に聴いていただくつもりで・・~


三島市常林寺の本堂で

たしかに「お寺の娘さん」とは伺っていたけれど、取材をした場所は本当に三島市常林寺。赤黒のチェックのワンピースに黒のカーディガン、胸のペンダントが似合う色白で、ショートカットの彼女は、なぜか白目がきれいだった。
先日の泉のまちコンサート「四季全曲」でバイオリニストのソロを演奏してくれた彼女の話が聴きたくて、取材をお願いをしたら快く引き受けてくれた。

お寺でバイオリン?と思ったが、話を聴くにつれて家族の音楽好きが伝わってきた。
2歳くらいからバイオリンを習い始め、夢はバイオリニストと、小1の文集にも書いていたらしい。遊ぶのは4時半までと決めていたし、友達も「薫はバイオリンがあるから、頑張ってね」と励ましてくれたという。
当時、彼女は人生を決める選択をしている。「ピアノとバイオリン、両方習うことはできない。どっちがいい?」の問いになんと「ピアノはやっている人が多いからバイオリンがいい」と答えてからバイオリン人生がスタートした。

ところで、お寺の娘で良かったことってある?と突然の質問をすると「ええ、敷地が広いので、周りを気にせず練習できたこと、私にとっては格好の練習場所なんです。御本尊様に聴いていただくつもりで・・・」と照れながら答えてくれたし「本堂は響かないから本物の音が聞こえるんですよ」と説明してくれた。

中学から不二聖心。「バイオリンを練習する時間が充分とれたし、素敵な学校でした。しかしこの頃から、バイオリンを江藤先生に教わりたいという気持ちが強くなってきたことも、事実なんです」と思い出しながら笑った。

私たちの入るスキがないほど「生活の軸がバイオリン中心でぶれていない」そう思わせてくれた。
しかし「人間、山田薫」に迫りたくて、恐る恐る訊ねてみた。「好きなものは?」「つけものや納豆などご飯の友。それから、いくらとお寿司」調子に乗って「嫌いなものは?」「えっと、椎茸、セロリ。両方ともにおいが強いものは駄目ですね」

雑談をしていると「今は、みんなの前で弾けるのが嬉しいですね。感じたままの感想を言ってくれた方が好きです」なるほど。「特に音楽を普段聴かない人が喜んでくれるのが嬉しいです」と目を輝かして話し始めてくれた。
ふと彼女はどんな男性が好きなんだろう?と関心を持った。「やっぱり尊敬できる人が好きですね。自分の目標を持っている人、ここだけは譲れないものを持っている人」またまた、なるほど。

「桐朋学園に入ってカルチャーショックでした。バイオリニストには簡単になれると思っていたら、私よりうまい人がゴロゴロ。高校3年間は追いつくのが精一杯でしたよ」と思い出しながら、当時を語ってくれた。「私は、のんびりした性格なんです、嫌なことはすぐ忘れる。もっと神経質になってみたい」と微笑みながらも、「ひとつひとつの音を大切にしたい」と自分に言い聞かせるように呟いた。

ソリストとして初めて演奏した「四季」。「嬉しいというより不安いっぱいでした。特に誰でも知っている曲を弾くのは難しいし、比較されちゃうだろうなと思いながらも、後ろの友達・先輩に支えられてなんとか度胸つけてもらいました」

「一生、音楽に関わっていきたいと思ってます。昨年、世界の子どもにワクチンを、のボランティアで、細川夫人と一緒にミャンマーに行って来たんですが、村の村長さんは大喜びだし、ボランティアをしにいって元気をもらってきました。こういうところで弾ける演奏家になりたい、と心から思いましたね。将来は、この人の演奏を聴きに行こう、といわれるような演奏家になりたいんです。書くのが作曲家、伝えるのが演奏家なんですよ」と自分の思いを熱く語ってくれた。「それから2001年春、小澤征爾氏率いる『オペラプロジェクト』に参加することになり、モーツァルトのオペラを勉強出来ることが最大の喜びなんです」と本当に嬉しそうだった。

最後に「山田さんにとって、バイオリンとは?」の質問には、暫く考えて「言葉では表現できないですね。小さい頃から無口な子どもだったから、祖父にバイオリンで話しているって言われたことがありました」きっと彼女の感情表現の一部なのだろうと感じながら、そして今後の活躍を期待しながら、楽しい取材を終えた。(月刊ウォーター・ビジョン平成13年2月号 やました このみ)

NO.12
君は「日吉 康雄」を知っているか?
~全てはインシャ・アッラー(神が望めば)~

黒のセーターに黒のスラックス、そして黒の革ジャン。この人はもてるんだろうな、思わせる姿で登場した彼からは、意外な台詞が飛び出した。
「なぜか普通の人がやっていることが出来ないです。結婚とかも・・。現実は縁ですしね。イスラムの世界でいうと、神が与えた試練かな」と笑いながら話し始めてくれた。「すべては、インシャ・アッラー」神が望めば、と言うわけである。

そういえば彼は、青年海外協力隊で、モロッコ(平成4・5年)に派遣されていたんだと思いながらも、この話は後で聞くことにした。
彼と話していて気づいたのは「人の役に立ちたい」という考えが根底にあることだった。
20歳の時、修善寺に住む跡取りのいない親戚のおばあさんのところへ養子に入る。
「3人兄弟の次男だったし、行くだけで人の役に立つのなら、という気持ちでしたね」「400ccのオートバイで日本一周(二ヶ月間)に挑戦、無事に帰ってきたら養子に入る、なんて自分で勝手に決めて・・」

結局、5年間、一緒に暮らした。88歳で他界したが明治31年生まれの高齢者と20代前半の若者が一緒に暮らすのは、思いのほか大変だったようだ。しかし彼は「介護と思いたくなかったんです、一緒に暮らしていた、そう対等の立場です」とはっきり言い切ってくれた。予想以上のストレスは地元の消防団活動で紛らわした。

「正直言うと、その頃、早く死ねばいい、と思った時もあったんですよ。しかし、俺がいないと生きていけないんだ。どうせなら百歳まで生かしてみようかな、って思って接したら、ストレスがなくなったし、一緒に生きているって感じがした」と当時を振り返ってくれた。
「おばさんが死んだとき、目標を失いました。最後の一呼吸、心臓の音まで覚えています。周りを気にせず、ひとりでワァワァ泣きました。中伊豆の火葬場で、自然に帰っていく煙をみながら、諦めたんですけれどね」とつぶやいた。

25歳で一人になった彼は、ぼんやり夕陽を見ていて考えた。西の方向へ飛んでいった鳥が、もしかしたら東から戻ってくるのかな、なんて思いながら、今度は27歳、世界一周(四ヶ月間)の旅に出ることにした。横浜から船、ロシアからシベリア鉄道などを利用しながら、ハンガリー、中近東、アメリカへと足をのばしたが、突然帰国した。なぜか、それはあと何ヶ月間、世界の国々に行っても「立場は旅行者」だという事に気付いたからだと言う。彼の望みは「人のために生きたい、社会の中に入り込みたい」だった。そんな時、沼津市役所で見た「青年海外協力隊のポスター」が彼の人生を変えたと言っても過言ではない。

若いのになぜ「人のために生きたい」と思うのか、不思議でしょうがなかった私は「どうして?」と聴き直してみた。答えは単純。「英雄になりたかったから」「平将門やアラビアのローレンスとか、なんか英雄って民衆のためになにかするってイメージがあるじゃないですか、あはは」ホッとした。「モロッコだと、歴史・文化・宗教が日本とかけ離れているので、かえって楽しみでした」「測量技術指導で貧しい人に援助するつもりだったのにいろいろ援助されましたね。教えてやる、という態度だと反発がくる。一緒にやろうぜ、一緒に稼ごうぜ、という態度だとついてくるです」懐かしそうに思い出していた。

帰国後、ホンジュラスから来ている研修生(もちろん女性)に、スペイン語が話せるという理由から「母国に車椅子を送りたいんだけれど、どうしたらいい?」と相談された彼は「患者のために・・」という訳を聞き「日本に置いていっていいよ、俺が送ってやるから」と言い返した。せっかくだからもっと多く送ってあげようと、彼は考えたらしい。さっそく全国に呼びかけた。そして「車椅子134台」を集め、平成8年、直接ホンジュラスへ行き引き渡してきたという。

現在は、地球環境に関心を持ち、全国に「水鉢」を拡げようと活動中。
もうすぐ40歳。好きなタイプは「自分の冗談が通じる人・明るい人」。話題は豊富。「老人介護について、モロッコでの生活について、イスラム教について」などなら、いつでも話してくれる。「小さな会合でも是非声を掛けてください」と言っていた彼は、最後に「花嫁募集中」って書いてね、と照れくさそうに呟いたのが、印象的だった。
(月刊ウォーター・ビジョン平成13年3月号 やました このみ)

NO.13
君は「日吉 真澄」を知っているか?
~音楽ってラブレターなんです~

ワインカラーのワンピースが、彼女のイメージを創り上げていた。
取材を前に、公民館で行われたコンサートを聴いてみたが、またたくまに「日吉真澄ワールド」に引きずり込まれてしまったというのが、本音である。
自分で作曲した曲を演奏する前に、その想いを語る彼女には、他の女性にはない何かがあると予感して、コンサート終了後の取材を楽しみにしていた。
「私は雨が好き」「寝起きって曲ができやすいんです。だから曲に詰まると一回寝ます」「作曲を通じて、風景ではなく心の中を表現しているんです」

そんな彼女のトークを聞いていると、しあわせの気分になれるから不思議である。
軽い食事をしながらのインタビューは、楽しいものになった。ピアノを始めたのは、4歳のときだったという。「ピアノのきっかけは?」「わたしが小さい頃はピアノブームでみんな習っていました。母も女の子が産まれたら、ピアノを習わせるのが夢だったらしく・・・」
作曲のきっかけは、どうやらピアノを弾く子は大勢いたから作曲をやってみたという子供らしい発想が嬉しくなってしまう。「8歳で私は音楽の道を選んでいましたね」

当時の彼女にとって、曲を作るということはふっと口ずさむ歌のように自然なものだった。中学生の時には学級歌なども作曲していたという。ちなみに彼女は函南町に住んでいた。
彼女の作曲活動の根底に流れているキーワードは「センチメンタル・メランコリック・ノスタルジック・ハートフル・涙」だという。
童話でいえば、マッチ売りの少女や人魚姫。童謡でいえば、赤い靴や小さい秋見つけた、幼少の頃の彼女はこういったウェットな作品が大好きな少女だった。

彼女と話していると、頻繁に「伊豆中央高校」の名が出てくる。「世界中のどこのステージよりも伊豆中央高校の体育館で演奏したい」と言い切った愛校心はさすが。裏を返せば出会った人の影響も大きかっただろうし、夢が生まれた場所だともいえそうである。
伊豆中央高校卒業後、国立音楽大学作曲学科に進学。大学在学中、21歳の誕生日を前に、東京高円寺のライブハウスで記念すべき第一歩を踏み出した。16曲すべてオリジナル。

「今後の活動は?」「コンスタントにアルバムリリースを続けていきたいです。それから全国美術館コンサートツアーをしたいです。知的な雰囲気やロケーションのいい場所でコンサートしたいですね」
彼女と話しているとたびだひ「人生」という台詞が出てくるのが、気になっていた。
「タイトル付きコンサートは自分の人生にリンクしているんです」「いつも人の人生とオーバーラップしながら、風景ではなく、ドラマを意識して作曲しています」

また彼女は、うんちくが大好きであった。たとえば、月をテーマに曲を作るとなると、月について調べるようだ。そこで身に付いた知識が彼女を支えている気がする。「月は形が変わるから好き、月の不安定さが好き、闇の中で光を放っている月が好き、月は二面性を持っているから好き」こんな台詞は簡単には出てこないはずなのに。
「曲を通じて、自分と同じ感覚を持った人や価値観の合う人に出逢いたい、言い換えれば、私を理解してくれる人かな」とちょっぴり照れくさそうに笑った。

「わたしが作り出した音楽が、哀しいことがあった時や寂しい気持ちでいる時の小さな支えになってくれたら嬉しい。一生懸命ひたむきに生きて、時には涙を流すこともあるかもしれないけれど、そんな美しい涙には大きな意味がある。
飛ぼうとして飛べない、それでも飛びたくて頑張る・・・わたしはそんな小さな鳥のような生き方が大好きです」なるほど。
「日吉真澄とは?」の質問には「ピアノを弾く人」と言い切ってくれた。

ちなみに好きなタイプは「こころのどこかに寂しさを抱える人、心の薫りが高い人、横顔が素敵な人」好きな食べ物は「茶碗蒸し、もずく酢、野菜」嫌いなものはない。
最後に、「私の音楽の中心には『自分は女性である』ということがあります。女性だったら誰にでも『ヒロイン願望』とか『花』でありたいという願いがあると思う。」「『ピアノラブソング』を届けていきたい。わたしにとって音楽はラブレターなんです。」と嬉しそうに囁いて取材を終えた。      (月刊ウォーター・ビジョン平成13年4月号 やました このみ)

■日吉真澄さんホームページ■
http://www.ne.jp/asahi/cafe/rainyforest/

NO.14
君は「吉田 成子」を知っているか?
~私は、記録マニアだから~


清水町長沢の自宅で

「こんにちわ」と声を掛けると「そこへ車をとめるとつかまるよ、ちょっとまってて」ともんぺ姿で飛び出してきて、向かいの家の人に「悪いけれど、少し停めさせてよ」と世間話をしながら交渉してまとめてくれた。

この方が、今回の取材相手、吉田成子さんだとすぐわかる、元気な女性だった。
玄関に入ってすぐ「渥美清と左幸子のポスター」が目にはいる。これは以前に映画化された「かあちゃんと11人の子ども」のポスターで、ちょっと古ぼけた紙が歴史を語り始めていた。

「昭和40年から清水町に住んでてね」座るとまもなく、こちらが尋ねようと思ったことを自分から話し始めてくれた。
そばには、今は珍しい黒電話。40年から使っている仲良し、と表現してくれた。母・とらさんの写真は、いたるところに飾ってあり、本当に母ちゃんのことが好きなんだなぁって感じさせてくれる雰囲気があった。

いつもは若い人を取りあげて、今後の活動を支援していくパターンであるが、どうしても、彼女を取りあげて欲しいという読者からの要望で、実現したインタビューであることを告げると、なぜか嬉しそうに笑った。
本を書き始めたきっかけは「父ちゃんの軍事郵便」。母は「11人の子ども達に夫のことを伝えたいという思いと、自分が出した本がベストセラーになって夫に申し訳ないという気持ち」から、毎日書き写してきた「父ちゃんの軍事郵便」を母が倒れたので、私がその意思を継がなければという思いで本にしたね、と当時を語った。

平成元年、何気なくNHK教育TVを見ていたら「私の介護体験募集」の記事を見つけた、そこで応募してみた。タイトルは「ベニスの舟唄でボケ防止」。それがなんと採用され、放送は全国で一番目だったという。
軍事郵便に書かれていた「あなたの町はベニスの舟唄のような町です」を、取材の最中に、病人の母が歌い出したのには驚いたね、と何度も言う。

「ところでさ、私は記録マニアだから。覚えないから何でも書くんですよ」と話し続けた。
例えば、町民カレンダーに飲んだ薬が張ってある。書き込んであるのではなく、薬そのものを一回分、張ってある。さすがにこれには驚いた。
さらに年表を持ち出して、出版の記録を明らかにされた。最初に昭和62年「父ちゃんの軍事郵便」平成2年「ぬくもり」平成5年「かあちゃんのボケがなおった」平成7年には新聞エッセイ十回分、平成11年「天までしあわせ」と続けるパワーが凄いと思う。平成9年までに、私の介護体験をテーマに講演会30回をこなしてきた。

そして、平成13年「西伊豆育ち」つながりは西伊豆土肥。私は西伊豆と切れないんだよね、ぼそっと呟いた。
成子さんは家庭科の先生、兄弟がすべて学校の先生という凄い家庭である。
今はね、歯が丈夫。8020目指しているんだ。

まだまだ話は続く。何か話題があると「ちょっと待ってて」と記録マニアの本領発揮、隣の部屋からいろいろな一覧表を持ち出してくる。
そういえば、やや大きい字で終戦の日記もしっかり持っていた。昔の日記から親が師範学校に行け、と言ったから行った。高等小学校8年間、皆勤賞。くそまじめでさぼれない性格。師範在学中にパラチフスにかかり、隔離病棟に入る。退院の当日、田舎に帰ると、リヤカーが迎えに来た、と手短に話した。

本を書く動機は?私は独身だしもちろん子供もいない。だから私の歴史を残してくれる人がいない(六無斎)でしょ、とちょっぴり淋しそうに呟いた。
でも、今回は2000部作ったけれど、何も欲しくない。私の子供だと思って、と付け加えるあたりが、吉田さんらしい。
自分の手を出して「これは黄金の右手」と称し、被服は全部手作りだから、どれだけ稼いだかな、と笑った。
今でも何でも興味がある。ところで今は長寿に挑戦しているの、とさらっと言ってのけた。

最後に嫌いなものは?と唐突に質問したところ「私ね、ずるい人間が大嫌い」と返ってきた。
気の強さがある。話し始めたら止まらない。声につやがある。内容に勢いがある。そんな感じのインタビューだった。
教員時代を振り返りながら、先生が大きく構えることが大切だな、とまとめてくれた。とても気さくな、そして楽しい彼女との会話は尽きることがない、今日はこの辺でペンを置くことにした。     (月刊ウォーター・ビジョン平成13年5月号 やました このみ)

NO.15
君は「本郷 美津子」を知っているか?
~どこにでもあるような演奏会はイヤ~


第1回音楽の広場(清水町公民館で)

さっき演奏会では白のドレスが似合っていた彼女が、グリーン系のシャツにGパンで、私の前に現れた。さっそくピアノの話に触れてみた。
「始めたきっかけは?」「え~、何となく・・、隣のお姉さんが弾いていたから。まぁ、小学校1年の頃から、好きなことは好きでした・・・」どうも歯切れが悪い気がしていたが、その原因はすぐ判明した。
「じゃあ、中学の頃から本格的に習い始めたの?」「中学、高校とバスケット部のキャプテンでした。ピアノは先生に練習のつもりできなさい、と言われて2週間に1度くらいの間隔でいってたかなぁ」と昔を懐かしんで、笑い転げた。

今回はピアニスト・本郷美津子ではなく、人間・本郷美津子に迫れそうだと、楽しみになった瞬間である。
「バスケットやると突き指とかするし、ピアニストには向いていないんじゃないんの」という私の疑問に「そう思うでしょ、だけどピアノの先生がいうには、バスケットのドリブルとピアノを弾くときって筋肉の使い方が同じらしいんです。それに、バスケットもピアノも腰が命、あはは」と豪快に笑い飛ばしてくれた。

最後は何でも体力でしょ、と話す彼女に、妙にこちらが納得させられてしまった。
どうやら周りの人には、ピアニストのイメージはないらしい。
高校時代、「今日、ピアノの発表会なんで、練習早く抜けたいんだ」と言えば「はぁ?何いってんですか」の台詞しか返ってこない。現在でも、ピアノコンサートのパンフレット見て「あっ、バスケ部の本郷先輩だ」と言われる始末。

高校2年の時、音大に進路を決めてからは、勉強、バスケ、ピアノと人並み以上に苦労したと思うのだが、そのあたりは体育会系「音大って、武蔵野音大しか知らなかった」でごまかされてしまった。そこが彼女の魅力なのかもしれない。
「みんなは小学校くらいからピアノに集中しているからうまい、私はそれ以上に頑張らなきゃ、って思っていながらスキー部に入りました」?おいおい。それでもなぜか、大学院へ。

本人から聴いた大学院面接試験での本当の出来事をご紹介。
面接官の「なぜ大学院に行きたいのですか?」の問いに「大学であまり勉強しなかったから」と答えた彼女。
面接官は絶句。それでも、受かってしまうのは彼女独特の強運?なのか。
いやいやそうでもなさそうだ。「最近、チャンスは自分で掴まなくちゃ、そのためにはとりあえず動いてみる事にしています」の台詞が物語っているようにいい意味で図々しく、こんなことやってみたいって周りの人にいうと段々叶っていくという。

彼女との会話は楽しかった。「私、嗅覚が鋭くて、高校時代に道路向かいの三島北小の給食のおかずを当てたり、クラスの友達が隠して持ってきたお菓子を当てたりしたんですよ」「なるほど。この先いいことがありそうとか、この人といると自分が成長できるというような、においも感じていたのかもしれないね」と切り返すと「嗅覚って人間には必要ですよ、絶対」と言い切ったところが彼女らしかった。

彼女のインタビューには「今思えばラッキー」という台詞がたびたび出てくる。その気がなくて始めたんだけれど、今思えばラッキー、という具合に、なんでもプラス思考で考えることが出来る性格の持ち主であることに違いない。
「今年度始めた音楽広場、プロデュースの感想は?」の問いには「どこにでもあるような演奏会はいや、あまりやっていない演奏会をしたい」と答えてくれた体育会系独特の、負けん気の強さが彼女の音楽活動を支えている気がしてならない。
また「観客のため、と答えればいいんだろうけれど、正直いって演奏者のためでもあるんです。技術も大切だけれど、一所懸命やれば観客に伝わることを感じて欲しいんです」とまたまた本音を語ってくれた。

「ピアノが好きというより、ピアノを通していろいろな機会に恵まれたり、いろいろな人に出会えるから楽しい」という考え方が、彼女をうまく表現していると思う。
彼女が企画する「音楽広場」、来月も楽しみである。
(月刊ウォーター・ビジョン平成13年6月号 やました このみ)

 


Project “Water Vision” Presents.
Copyright(C) Water Vision. All Rights Reserved.

作成日2002年6月19日