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バラが綺麗に咲く理由~文芸~【坂田 悠】

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  • 2016/06/11

バラが綺麗に咲く理由
~文芸~
【坂田 悠】
平成11年7月号掲載


 東京駅から、新幹線に乗り込む頃にはまだ外は明るかったのが、友人の英史と待ち合わせた駅に着いた時には、もうすっかりあたりは暗くなっていた。予定よりも一本早い電車に乗ったせいで、約束の時間まであと30分程もあったので、僕は駅前の商店街を歩くことにした。

まだ7時前だというのにほとんどの店がもう店閉まいの準備をしている。十分ほども歩くと商店は終わり、僕は薄暗く何だかやる気のない商店街を駅に向かって引き返した。

歩きながら煙草に火を点け、何気なく夜空を見上げると、思いのほかたくさん星が見えるのに驚いた。これだけの星を見るのは一体いつ以来だろうか。そんなことを考えながら駅に戻ると、程無く英史が車でやって来た。

駅から車で十五分も行くとけっこう大きな港があり、そこの魚料理屋ばかり並ぶ通りの中の一軒に入り、刺身など喰いながら少し酒を飲んだ。

店閉まいの時間が近づく頃には、酒に余り強くない僕は相当に眠くなってしまっていたので、その夜はそのまま英史の家に向かった。英史に会うのは一年ぶりだったが、少しも変わったようなところが見当たらないのが妙に嬉しかった。

目が覚めて時計を見ると、朝の六時を少し回った所であった。いつもなら寝直すのだけれど、すっかり目が冴えてしまったので僕は外を歩いてみることにした。

勢い良く寝床から起き上がり、床の上に脱ぎ捨てたままのスーツをパジャマの上に羽織ると、どう見ても寝ぼけたサラリーマンの格好になってしまい、そのまま外に出るのが一時憚られたが、寒いのが苦手な僕は結局そのまま部屋を出た。所々きしきしと音を長ける長い板張りの廊下をまっすぐに歩き玄関に着く。昨夜は気が付かなかったが、古い造りの家らしくやたらに玄関が広い。僕の住んでいる四畳半よりも大きそうである。何だか早くも空しい気分になりながら、置かれてあったサンダルを拝借し玄関の戸に手を掛けると、戸は思いのほか素直に開いた。錠が掛かっていない。もう誰か起きているのだろうか。

広い庭を抜け木造の潜り門を通り外に出る。右のほうには民家がちらほら目に付くので、僕は人目を避けるように左に向かって歩き出した。優しく包み込んでくれるような日差しが朝の冷たい空気と混ざり、申し訳ないくらい心地良い。

十五分も歩いただろうか。稲刈りの終わった田んぼばかりの風景にあき始めていた僕は、何か背丈の低い茂みがあるの見つけた。そんなに強く興味を引かれたわけではなかったけれど、僕の足は自然にその茂みへと向かっていた。

それは、この辺りの風景とはおよそ不釣り合いな空間であった。僕の前に全く唐突に姿を現したのは、何とバラ園だったのだ。秋も深まったこの時期に鮮やかな花を咲かせている。ほのかな甘い香りの中で、僕は少しの間、頭の中が空っぽになりつったていた。バラの季節がいつかは知らなかったのだが、朝夕の冷え込みが冬の訪れを予感させるこんな時期に、目の前で美しく咲き誇るバラの花は僕を驚かせた。

バラの垣根の向こう側は芝生になっており、古びた木のベンチがぽつんと一つだけ置いてあった。その奥にはレンガ造りの花壇が規則正しく並び、どの花壇にもバラが植えられていた。様々な表情を見せ咲くバラの花たちの、妖しささえ感じさせるその美しさは、何か現実離れしたような不思議な感覚を僕に与えた。一輪の花がそれぞれ何か明確な主張を持って咲いているようであった。

何せ小さなバラ園である、ゆっくり見ていたつもりであったが一通り見終えるのにそれほど時間はかからなかった。もう少しここに居たい気もしたが、黙って出てきたことも少し気にかかるので引き返すことにした。

いつの間にやって来ていたのだろう、さっき迄誰もいなかったベンチに老人が座っている。普段の僕ならきっと黙って通り過ぎる所なのだが、環境の違いがそうさせたのだろうか、僕は老人に話しかけた。すると老人は僕にどの辺りに住んでいるのか、というようなことを尋ねたので、僕は地元の人間ではなく、この近くの友人を訪ねてきたのだと答え、勧められるままに老人の隣に腰掛けた。

老人は、このバラ園は今は手入れする者も居ないが、それでも一年中薔薇が絶えることはなく、自分は毎日ここに来ているのだ、といったことを一通り話し終えた後、突然こんな話を始めたのである。季節は丁度今頃、霧の濃い朝であった。このバラ園に若い一組の男女が訪れた。二人共地元の若者で、その年の春に大学を卒業しこの近くの街で職に就き、今は実家で暮らしていた。かれこれ六年以上も交際を続けてきた二人は来年の春に式を挙げる予定であった。女は地元でも評判の器量良しで、男は自分には勿体無い位だと常々思っており、何よりも女の事を大切にした。その思いは色褪せることなく、かえって強まっていくようだった。

バラの花は昔と同じように美しく咲き誇っていた。二人共どこか懐かしい思いを感じながら飽きることなくバラを見て回った。いつの間にか女の姿が見えなくなっていたが、何せ濃い霧で十メートル先もろくに見えない程であったから余り気にはならなかった。

それは一瞬の出来事であった。男の目の前のそのバラの花がその瞬間確かに鮮やかさを増したのである。霧が晴れてきたのだろうか、男はそう思ったが、相変わらず霧は濃いままである。

その直後、何か言いしれぬ不安のような嫌な感覚が男の胸を掠め、男は女の名を呼んでいた。
女から返事がなかった。そしてどういう訳かその時、男には初めて二人でここに来た時のことが思い出された。男が女のことを薔薇の様に綺麗だと言った。その言葉が不思議な説得力を持って思い出されていた。それは不器用で照れ屋の男の精一杯の愛の告白であった。

女の行方はそれからいつ迄経っても知れなかった。男には、あの時の告白の言葉だけがいつまでも悔やまれ、以来毎日ここに通っている。バラの花に消えてしまった恋人の面影を探しに。

老人は、そこまで話すともうその口を開かなかった。
女はバラの花になったのだ。老人はそう言いたかったのだろう。しかし僕はこの話を信じられる程の透明な心はもう持っていなかったし、今でも信じてなどいない。けれどこの時の老人の話は、あのバラの妖艶な美しさの記憶と共に、奇妙なリアリティーを持って僕の中に生きている。
(さかた ゆう)


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作成日2002年8月5日