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竹の間 ?竹田共生塾塾長 竹田恒泰氏連載コラム?

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  • 2016/06/28

竹の間

?竹田共生塾塾長 竹田恒泰氏連載コラム?

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2001年11月号
No.1  「横浜寿町の野宿者は今・・・」
 9月27日午後十時、横浜駅構内で毛布の配布が始まった。横浜水曜パトロールの会は毎年横浜駅周辺で生活する野宿者に毛布の配布を実施している。
横浜水曜パトロールの会は、その名の通り毎週水曜日に横浜周辺を定期的にパトロールしている会である。横浜駅周辺には野宿者が多い。毎週僕らは野宿者達一人一人と話をする。その話から野宿者たちの実態を把握している。中には病気にかかっていたり、精神的に病んでいたり、高齢で動けなくなっている人がいる。僕らは福祉を通じて彼らを病院に連れていき、または必要なアドバイスを行っている。
冬にはどうしても凍死者がでる。そこで僕らは全国から不要な毛布を譲り受け、または購入して野宿者たちに毛布を提供している。
特に横浜は昔から港湾労働者の集まる場所で、日雇い労働者のマーケットになっているところなのだ。地方から出稼ぎにやってきて、仕事を見つけ、仕事が終わるとまた次の仕事を探す。石川町駅の近くに寿町という一角がある。そこには日雇い労働者達が寝泊りする施設が多数ある。いわゆるスラム街であり、ここが日本であることを忘れてしまうような風景。多少の小銭があれば屋根のある寝床、小銭もなければ野宿になる。毎年この寿町で多数の餓死者、凍死者がでる。
水曜パトロールの会は寿町生活館に勤務する高沢さんが八年前に立ち上げた会で、それ以来様々な活動を行ってきた。
野宿者といえば、怠け者と勘違いされやすいのだが、実態はかなり深刻である。かつてバブルの頃は世間に疲れた怠け者が野宿をしているという話もあったが、最近は本当に仕事がない。若ければバイトに就くのは困難なことではないが、50才を越えるとそうはいかない。以前会社を経営していた社長が今は野宿生活という場面もよくあるし、怪我をしてクビになって以来職がないという人も多い。65才を過ぎて生活保護を受けられるにも拘わらず敢えて困難な野宿生活を貫徹する人もいる。彼らにいわせると国の世話になるくらいなら死んだほうがましらしい。
彼らと話をしていると世間の冷たさを感じる。彼等は好き好んで野宿をしているわけではないのだ、何とかそこから抜け出そうとしてもがいても、日本の社会は彼らを簡単に受け入れてはくれない。屋根のある生活も屋根のない生活も紙一重。僕もいつ野宿生活になるかわからない。この記事を読んでいるあなたでさえひょっとすると十年後にはダンボールで一夜を明かしているかもしれないのだ。能力のあるなしや、仕事をする意思のあるなしに拘わらずそれは訪れる。
JR横浜駅は夜になると野宿者を駅構内から排除する。今僕らは、24時間開放を求めて駅側と泥沼の交渉を続けてきている。その交渉をしている最中に既に何人もの方が凍死している。
(たけだ つねやす)

 

2000年12月号
No.2  「中国のへそ 北京報告」
 僕はよく中国に行く。一人でぷらりと旅に出るのだ。
今までの中国滞在は合わせると4ヶ月を超えるけれども、いつもチベットとか雲南とか、へき地ばっかりで、実はこの秋初めて北京に足を踏み入れた。
中国は三十以上の少数民族のまとまりで、いわばアフリカがひとつの国になっているようなものだから、地域によって何もかもが違う。これほど中国を旅している僕にとっても、まったく別の国に来たような気がした。
北京の人たちはお上品だ。ま、初めて中国に来た人から見ればそうでもないのかも知れないけれども、中国の中で比べれば、格段にお上品である。
他の地域の人民との違いは、まず、建物の中で痰を吐かないこと。ウェイトレスが料理を運びながら「ガー、ペッ!」をするのが大陸の常識だからこれは大変な違いである。しかも、外であっても「ガー!」で止めて、ごみ箱まで行って続きの「ペッ!」をする人が多い。なんという気の使いよう。
次に、若い女性が人前で鼻くそをホジらないこと。など基本的なことから始まってファッションに対する気遣いなどは格段に違う。
とにかく北京はでかい。街がでかいのは当たり前として、何に付けてもでかいのだ。天安門広場なんかは半端な広さじゃない。世界中に広場はたくさんあるけれども、そんなものじゃない。通常広場といえば、街角に申し訳なさそうにひっそりと、何かのついでに存在しているものであるが、天安門広場はしっかりと広場としての存在感がある。ここで百万人集会ができるという。ちょっと想像がつかないが、NHKホールが二千人だから、その五百倍とでもいおうか。ここで歴史上の事件が繰り返されたと思うとじっくり座っていて感慨深いものがある。
やっぱり一番でかさを感じるのが故宮である紫禁城。元の時代から王宮として使われているのだが、歴史の長さもさることながら、その規模たるや右に出るものはないだろう。映画「ラスト・エンペラー」で有名なあの紫禁城である。部屋の数が約九千。僕は朝十時に正門を入り、見学を終えたのが夕方五時。それでも見切れない。建物がすごいのであるが、それにも増してすごいのは、こんなものを作ろうと考えた人の想像力だ。後にも先にも例がない建築物であろう。神様が「キリン」を作ってしまうのに匹敵するほど奇抜なアイディアである。
しかし、それ以上にすごいのは、紫禁城内にスターバックスの出店を許可した役人と、恐れ多くも紫禁城に出店してしまおうと計画した担当者だ。確かに中心街にスターバックスがあって驚きはしたものの、城内で古い瓦屋根の下にスターバックスのマークを見たときは大爆笑。法隆寺の御堂の中にマクドナルドを入れてしまうようなものである。恐るべし中国人。小遣い帖
北京ダック一人で二人前食べて五〇元(約六百円)という安さ。宿もシングルでトイレ・バス付き中心街まで徒歩四分の立地で一泊百二十元(約千三百円)という優良安宿を使って、四日で七千円も使わなかった。
(たけだ つねやす)

 

2001年1月号
No.3  「究極のグルメ」
  僕はおいしいものが好きである。衣食住では間違いなく「食」を優先させる。僕はグルメを求めて世界を巡るのだ。その中でいくつか究極といってよいグルメに出会うことができた。おいしいとかまずいとかを論じるのはただの「グルメ」である。「究極のグルメ」とは物事の極みであり、味の良し悪しの問題ではない。

【究極のグルメ―中国編】
僕は基本的に嫌いなものはないから、出されたものは何でも頂くことにしている。これまでイナゴ、蜂の子から始まり蛇、ワニ、サソリ(蠍座なのにサソリを食べてしまった・・・そういえば兎年なのに兎も食べてしまった!)と難なくクリアしてきたのだが、中国でどうしても食べる事のできないグルメに出会った。
中国雲南省景洪で小学校の正門前の屋台で売られていたものがある。何か黒っぽい唐揚げを児童達がむさぼるようにかじっている。なんと、ゴキブリの唐揚げなのであった! しかもおいしそうに集団でかじっている。僕は危うく失神しそうになりながらもその風景を注意深く眺めていた。挑戦すべきか否か悩みに悩んだ挙句、辞退することにしたのだが、それにしても人間がゴキブリを食べてしまうというのは何といおうか、余りにも恐れ多いではないか。勿論健康上の心配もあるが、我々人類の最も先輩と言われているゴキブリさん達をおやつとしてバリバリと食べてしまうのである。飢えている人ならまだ分かる(いや、ゴキブリを食べて生きるくらいだったら死んだほうがましとも思えるが)。 彼等はお小遣いで嗜好品として食しているのであった。やはり中国人、スケールが違う。

【究極のグルメ―イエメン編】
イエメンのアルムッカラで僕は一人街頭に腰を下ろし行き交う人々を眺めていた。その時、コーラの空き瓶と、半分に割れた蛍光灯を持った変な男がにやにやしながら僕に近づいてきて、隣にぴたっと座ったのだ。気持ち悪いヤツだなと思いながら眺めていると、彼は僕の直ぐ隣で、半分割れて先のギザギザにとがった蛍光灯におもむろにかじりついたのである。僕は「ギエー」とも「ギョエー」ともつかない奇声をあげて食い入るように見つめてしまった。男は蛍光灯を食べている。それも一口ではない。次から次へとかじりつき、ついに手にしていた蛍光灯一本をたいらげてしまった。相変わらずニヤニヤしながらもぐもぐとやっている。よーく噛んでゴクンと飲み込んでしまった。男はすごいでしょといいたそうな顔をしながら、口をあんぐりと開けて、全部飲み込んだことを僕に見せた。昔「晴れ時々ぶた」という絵本で、お母さんが鉛筆をてんぷらにして食べてしまう話を読んだが、将にあのまんま。人生で最も度肝を抜かされた瞬間であった。
話はそれで終わらない。僕は次に何が起こるか知っていた。そう! コーラの瓶である。奴はコーラを飲みたくてコーラを買ったのではない。瓶を食べたくて買ったのだ。奴は顔をくしゃくしゃにしながらあの硬い瓶を次々とかじり割り、鉄の胃袋に流し込んでゆく。以来僕は何を見ても驚かない体になった。(この話は全て実話です。)
(たけだ つねやす)

 

2001年2月号
№.4  「本の間」
  人生の師匠といえる人物は何人かいるが、それ以上に僕の人生に大きい影響を与えているのが本である。 僕は小学生の時から本が大好きで、中学高校とかなりの本を読んだ。今でも講演料を受け取るたびに本屋へ行ってごっそりと本を買う。
本は紙に文字が印刷してあるだけのものであるが、それが人を興奮させたり、泣かせたり、読み手の人生を塗り替えてしまったりするし、社会を揺り動かしてしまうことすらある。「ペンは剣よりも強し」とはよくいったもので、そこに本の真価がある。立花隆の記事が時の首相田中角栄を退陣に追い込んだのは有名な話である。
一冊の本を書き上げるのは大変なことである。書き手の人生が乗る。一冊の本にはドラマがある。読み手はたった数時間を費やして読みきるだけで、その世界を共有できる。いわば時間の有効利用とでもいえよう。
その最たるものは人物記である。一人の人間が一生かけて経験することを、僕らは人物記を読むだけで疑似体験することができるのだ。これは人生何度も生まれ変わって経験することを一回で済ましてしまうほど時間の有効利用ではないか。
だから僕の人生の師匠は坂本竜馬であるし、上杉鷹山、勝海舟、福沢諭吉、宮本武蔵、ナポレオン、ガンジーであるといえる。人生の節目に来た時、「この題、竜馬ならどうやって解決するだろうか?」と、あたかも竜馬と知り合いであるかのように考えられる。自分の心の中に竜馬がいる。これも司馬遼太郎「竜馬がゆく」、武田鉄矢原作「おーい!竜馬」のお陰である。誰が書いてもいいわけではない、司馬遼太郎、武田鉄矢であるからいいのだ。彼の人生を投影しているからである。
僕の25年の生涯で衝撃的といえる本との出会いがいくつかあった。その内二つを紹介することにする。はじめは小学生の時に読んだ絵本で、ルイズ・アームストロング著「レモンをお金に変える法」。この本は主人公の男の子がレモネードのお店を出す物語で、ビジネスのドラマが面白おかしく綴られている。僕はこれを読んで将来は会社を作りたいと本気で思った。ぼくのビジネスに対する情熱はこのとき開花したのである。
次は中学生の時に読んだ童門冬ニの「上杉鷹山(上・下)」。ケネディーに「最も尊敬する歴史上の人物」といわしめた鷹山は、青年の時、最も貧しい藩である米沢藩の経営を任され、僅か十数年のうちに最も裕福な藩にのし上げていく。アメリカが建国される遥か以前に、「人民の、人民による、人民の為の政府」という考え方を発案実践した人物である。僕は読み終えて一人の人間が本当に世界を変えていくことができると確信し、以来壮大な夢を持ちつづけることになった。
どんな本と出会うかによって人生大きく変わる。以前本といえば高級品で庶民が入手するのは困難であった。ところが最近は本の価格が安く、誰でも欲しい本を入手できる。それはとても素敵なことではないだろうか。勝海舟が現代に生きていたらさぞ喜ぶことであろう。
(たけだ つねやす)

 

2001年3月号
№.5  「人の行く 裏に道あり 花の山」
 中学生の時に初めて株を買った。それまでの貯金していた五十万円と、家族から拝借した資金を合わせて百万円を持って證券会社に行った。当時、僕は12歳、證券会社にいるだけでも不自然で、周りの視線を集めていた。幾つかの證券会社は「未成年とは取引できない」と言って窓口で断られたものの、四件目にして野村證券がオーケーしてくれ、僕の株式投資時代が幕を開ける。
当時はバブル崩壊前で株式市場が大いに賑わっていた。自分の株を持っているということが妙にリアルで、毎朝学校に行く前に新聞に目を通して、世界の情勢にアンテナを張り巡らせていた。新聞も一般紙では物足りなくなり、株式の専門紙を読み、書店に並ぶ経済・経営関係の本を読破し、知識では専門家をも凌ぐレベルに達していたと思う。今思うとあの時勉強したことが、今の会社経営に大きく役立っている。
当時はまた仕手株というものがあって、何日もストップ高を続けるような激しい動きをする株を買っては毎日ドキドキしながら行方を追っていた。インターネットがない時代だったけど、パソコン通信が始まっていて、毎日学校から帰ると部屋のパソコンをニフティにつないで相場の動きをチェックしていた。それでも仕手株を持っていると一分単位で相場が乱高下するので、どうしても必要に迫られて携帯電話を持った。その時の携帯は辞書ほどの大きさで、持っている人がほとんどいないものだから、いちいち珍しがられて、恥ずかしいものだから、電話ボックスの中でかけたりなんかして「意味ない」って言われた。僕はその時から既に携帯電話による電磁波障害を気にしていて、イヤホンで会話するもんだから、歩きながら「どーも、どーも、元気ですか」なんて言っていると、はたから見たらほとんど分裂症状態。学校の授業中に證券会社の営業マンから電話がかかってきて、「動き出しました!」なんて言われ、「それじゃ、四千株売っておいてください!」って言うものだから、学校の先生はぶったまげて開いた口が塞がらない。
投資の成績はどうだったかというと、中学の3年間はそんな大きな儲けはなかった。本当に大きく儲けたのは高校生の時。東急電鉄がものすごい高値を付けた時、猛烈な勢いで空売りをかけた。その後、何ヶ月かたって株価が急落した時に底値で買い戻したものだから、百万円だった資金が二千万円になっちゃった。やっぱり人間は欲をかくとダメだね。調子に乗って日経先物オプションに手を出した時、初めの一週間は順調でさらに一千万円ほど利益を出したんだけど、次の一週間で三千万円の損を出しちゃって、今までの利益を全部飛ばしちゃった。
5年間くらい真剣にやってきて、経済の流れ、会社の財政、ビジネスセンスなど本当にいろいろなことを学ばせてもらったと思う。
その当時身に付けたものが、相場格言のひとつで、「人の行く 裏に道あり 花の山」
(たけだ つねやす)
今月の言葉「日系先物オプション」
先物オプションとは、先物よりも遥かに値動きが激しく、最もハイリスク・ハイリターンの投資物件であるとされるもので、将来特定の日に、指定する特定の金額で現物を売る権利、もしくはかう権利を売買する取引。この場合日経平均が現物にあたる。書籍案内
「原子力発電で本当に私たちが知りたい120の基礎知識」
広瀬隆/藤田祐幸  東京書籍 1,680円原発の全てについて待ち望まれた初の標準的なテキスト
原発がなくなったらどうなる?地震は大丈夫?廃棄物の処理はどこにどうするのか?今、誰もが知りたい疑問を最新のデータで解説。知りたい項目から、読んでみてください。
2001年4月号
№.6  「自然食を食べてはいけない!」
 巷では環境ブームに乗っかって自然食ブームが巻き起こっている。「無農薬」のラベルが付いた野菜は高値で取引され、天然、無添加、非加熱処理といった、いわゆる自然に近い状態の食品がもてはやされている。自然食ブームが盛り上がれば盛り上がるほど逆に心配になるのは僕だけだろうか。市民はいつも裏切られてきた。環境に無害であるといってフロンが世界中で使われた後になってオゾン層破壊の元凶であったと知らされたことはそう昔の話ではないし、安全な食品であると信じていたものが突然「発ガン性あり」と報道されることもある。そこで今回は自然食について考えてみることにしよう。
自然が安全という考えはあまりに短絡的である。本来自然は恐れるべきものであり、決して安全なものではない。人間の歴史は食原性奇病の歴史であり、自然食だけを摂取していた古代の人類は決して長生きではなく、むしろ、摂取する食事のバランスの悪さ、ビタミン不足などが原因の奇病との戦いであった。しかもこれが克服されたのは20世紀半ば以降である。
わらびに発ガン性があるというのは今や有名な話であるが、昭和30年代にこの事実が伝えられた時は相当のショックであったろう。動物にわらびを食べさせると発ガン率が急増する。茹でても塩漬けにしても低減はするものの依然として危険であるという報告がある。牛乳にしても普通に考えたら太陽の下で育った牛が良さそうである。しかし味はよいものの農薬の残留量が高い。逆に日の光を受けずに牛舎で育てられた牛の牛乳は味は薄くてよくない反面、農薬が残留していない。おいしいものが必ずしも体にいいとは限らないのである。これはなんとも皮肉なことではないか。
更にいえば、自然食の象徴は玄米であるが、玄米めしは白米めしより確かに栄養分は多い。しかし、玄米めしは栄養の吸収率が低いため、結果的には栄養価値が低いことになる。つまり、カルシウムに関しては白米の二倍もカルシウム分を含んでいる玄米を食べても体内に蓄積されるカルシウム分は三分の一でしかない。マグネシウムに関しては玄米を食べるほど体内から流出するというマイナスの効果になってしまう。しかも農薬残留量が白米より三倍高い。
魚についても近海物は遠洋物に比べるとダイオキシン類の残留量が極端に高いし、汚染された海から取れる天然塩もいかがなものかと思われる。
それを考えると、「自然食を食べてはいけない!」とまではいわないとしても、手放しで受け入れるべきではないといえる。そもそも自然は恐れるものである上に、人間による汚染の結果、帰るべき自然は最早なくなっているのではないか。
僕は環境保護という言葉が嫌いである。強い「人間」が弱い「環境」を保護するというのは人間のエゴに思えてならない。実は本当に保護されなきゃいけないのは人間だったりする。これからは「保護」ではなく人間と自然が「共生」していく道を模索しなければならない。(たけだ つねやす)
2001年5月号
№.7  「やっぱり自然食を食べてはいけない!」
  先月号に掲載した「自然食を食べてはいけない」は予想通り反響があった。肯定する人々、否定する人々、色々な意見が寄せられた。万人が納得する文には微塵の価値もないので嬉しく思う。紙面に限りがあるため十分なデーター類を記載できないのが残念であるが、僕の文を読んで興味を持った人が独自に調べればいいと考えている。また、「自然食を食べてはいけない」というのは単純にコピーとしてのタイトルであり主張の中身ではない。今まで100%安全だと信じていたものに対して完全に安全だといえるものはなく、最終的に自分を守るのは自分であり、好奇心を持ち正しい知識を自分で得るような癖をつけて欲しいという希望を語っているだけである。そもそも何の興味も沸かないつまらないタイトルでは人々は関心を示さない。たとえば「落第はよくない」なんてタイトルの本は誰も買わない。「落第のススメ」とやるから本が売れるのである。だから「自然食はいい」なんてやったら面白くも何ともない。自然食がいいということは当たり前であり、万人が信じて疑わないからである。だからこそ、そこに疑問を投げかけることに意義がある。
そこで、寄せられた疑問・質問・反論を踏まえて補足をしていこうと思う。まず第一に先月号で玄米と白米の比較をしたが、それについてもう少し詳細を説明する。まず、玄米が古くから日本人の主食であったと思われているが、一般庶民が毎日玄米(米)を食べるようになったのは明治以降で、つい最近のことである。栄養価値は白米に比べて玄米の方が遥かに高いにもかかわらず、玄米は吸収率の点で白米に劣るが、この根拠は試験管内の実験ではなく、大阪市大が行った便の分析により説明されている。これによると玄米食をしている人の糞便の量は白米食をしている人のおよそ二倍。便中の繊維の量も玄米食をしている人がおよそ二倍といった明らかな違いが認められる。摂取量と排出量から計算して、玄米は白米に比べて二倍のカルシウムを含んでいるにもかかわらず玄米食をしている人は白米食の半分しかカルシウムを摂取していない。しかも尿中のカルシウム分を差し引くと玄米食では一日に一六ミリグラムの蓄積となり、白米食の五九ミリグラムと比較して三分の一に過ぎない。マグネシウムの収支に関しては更に玄米食が劣る。なぜ吸収率の違いが現れるかというと、玄米に多く含まれるフィチン酸が影響している。フィチン酸は種皮の内側の糊粉層に多く含まれるため、精白すると減少する。このフィチン酸が消化管の中でカルシウムとキレート結合し、カルシウム、マグネシウム、鉄、亜鉛等の吸収を妨げるのである。その他に残留農薬の問題もある。大阪大理学部植村氏の玄米白米に残留する有機リン系農薬スミチオンの残留量を調査したデーターが発表されているが、これによると、北海道産の普通玄米には0・0017-0・0056ppmのスミチオンが含まれているのに対し、低農薬と銘打っているものでは北海道でも大阪でも0-0・0016ppmとやや低く、無農薬と銘打っている北海道産の玄米の一部には0・0004ppmが検出されたものがあった。これを白米にすると残留農薬は約三分の一に減少する。無農薬玄米といっても地域によっては完全に無農薬でない場合がある点と、白米にすれば安全性がさらに三倍あがる点は明確である。玄米には豊富なビタミンB1・Eが含まれているが、現代人の食事では問題なく豊富なビタミンB1・Eを摂取できているので、白米食であっても欠乏症に至ることはない。
自然食信仰の危険性について論じる人が少ない。食品添加物も農薬も摂らないほうがいいに決まっている。しかし自然食信仰が度を過ぎると逆に偏った食生活に陥る危険性がある。欧米ではマーケットに行くと必ず自然食コーナーがあって、しかも日本のそれと違い、食品の種類が豊富なことに驚かされる。例えば穀類豆類に関していうと、日本では少ないところで数種類、多くとも十数種類に限られるが、欧米の自然食品コーナーでは数十種類の豆が並んでおり桁違いの規模である。日本で安全な食品しか食べないとすると、極端に狭い範囲で選択することになり、偏食の害を逃れるのは難しくなる。いうなれば自然食という名の偏食をしていることになる。偏食は栄養のバランスを崩し、何かが不足しやすくなる。その他に重要なのは、偏食をして特定の食品ばかり食べていると、それが問題のない食品ならばよいが、万一毒があった場合取り返しがつかない。リスクが分散できないのである。例えば飛行機の二人のパイロットは食中毒のリスクを回避するために全く異なった食材の食事を摂る上、食べる時間も意図的にずらしている。
時代は既に汚染の時代に入り、もはや完全に安全であるといえる食品は存在しない。自然食品だからといって完全に安全だとはいえない。確かに通常の食品に比べたら安全である確率は高いかもしれないが、手放しで受け入れるべきではないし、自然食という偏食をするべきではない。食品添加物、農薬等明らかに有害と分かっている食品は当然に避けるべきである。多品目を食べていると毒が含まれていてもその毒は薄まる。一種類に毒があっても、十種類に分散していれば毒は十分の一で済む。有害であるとされていないのであれば広く多種多様な食品を食べてリスクを分散させるのが現代の賢明な食ではないだろうか。最後に、自然食を非難しているのではないことに注意していただきたい。 (たけだ つねやす)■ この記事に関して、疑問、質問、詳細について知りたい方は、竹田恒泰メールアドレス
takebom@takeda-tsuneyasu.comまでどうぞ
2001年6月号
№.8   「東海村報告」
 先日、東海村を訪れ放射線強度の測定をしてきた。結果からいうと現在東海村の放射線強度は正常値まで落ちている。臨界事故現場であるJCOの敷地を一周して測定したがいずれも正常値であった。その他東海村各地を調査して周ったが、その中で一番測定値が高かったのはなんと放射性廃棄物最終処分場のPRをしている施設であった。この施設ではウラン原石とウランガラスの展示をしている。通常の自然界でのガンマ線の放射線強度が一時間あたり70ナノシーベルト前後であるがウラン原石の展示コーナーではその十倍以上の値を記録した。といってもその値が直ぐ健康に害を与えるというほど強い値ではないものの、事故現場周辺よりも遥かに強いガンマ線を放射しているというのは皮肉なことである。資料館のウラン原石の近くで一年間ガンマ線を浴びた場合、六ミリシーベルトの放射線を浴びることになり、一般住民の年間許容被爆量の六倍を超える。全国の電力館には同じくウラン原石が陳列されているケースがあるが、「放射線危険」の表示をしてもよいのではないか。ウランガラスはブラックライトで幻想的な輝きを放ち、それはこの世のものとは思えない愉楽の世界を感じさせるような不思議な美しさを持っている。資料館を訪れた子供たちが「綺麗、綺麗!」とはしゃいで見とれている姿に僕は疑問を感じる。
平成十一年九月に東海村で臨界事故が起きて早一年半以上が経過したわけであるが、現場での放射線量が正常値に戻ったといえども、重大な事故として記憶に焼きつけておく必要がある。JCOの事故は制御棒も遮蔽装置もない原子炉を突如として市街地に出現させることとなり、決死隊が沈殿槽の冷却水を抜き取るまで長時間に渡り中性子線を発しながら住民を被爆し続けた。これは日本の原子力史上最悪の被曝事故になった。それでもこの事故は原子力関係の事故としては極めて小規模であり、一般の原発で想定される事故に比べ十億分の一以下の規模でしかないということを知るべきである。
事故を起こした沈殿槽には約三キログラムの核分裂性ウランが存在していたのであるが、もしその全てが死の灰に変わったとすればそれは広島型原爆一個分の放射能量に匹敵する。ところが今回はその内約一ミリグラム程度のウランが臨界により死の灰になっただけであり、JCOの事故で生成された死の灰の量は広島型原爆の百万分の一に過ぎない。ましてや標準的な原発を一年間運転すると原爆千発分の死の灰を生産することになり、これはJCOの事故の十億倍に匹敵する。日本ではこのような原発が現在五二基稼動しているのである。チェルノブイリの事故では事故処理に当たった人員の内既に約五万人が亡くなっており、これは日航一二三便の約百倍、阪神大震災の約十倍の犠牲者数である。(たけだ つねやす)

 


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作成日2001年8月30日