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松岡享子の「タイで学校を建てる」までの道

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  • 2016/07/01

 

松岡享子の「タイで学校を建てる」までの道

2001年8月?2002年2月


2月26日(火) 第9弾「日本に帰ってきた」

日本に帰ってきました。
2月1日、夜8時半成田空港に到着。泥と土にまみれて日本、かえってきました。
タイ語も何もわからず2ヶ月の予定でとりあえず飛び出してしまったタイ、
気がつけば六ヶ月もタイの大地に取り付かれていました。
日本に戻りようやく3週間が過ぎようとしています。自分の中で、
タイが消化されてきているというよりは、ますます膨らんでいく感じがする今日この頃です。
前にも何度か、タイを始め東南アジアの国々へ旅に行ったことはあるけれど、
それは帰ってくると泣きたいぐらいの懐かしさをともない、
そのうちいい思い出として変わっていくものでした。

しかし今回は何かが違うのです。ただの旅行先での経験ではなく、
その土地に住む人々、自然と私はつながっている感じがするのです。
しっかりとした重い安定感を持つのとは対照的に、
家や場所に対する執着みたいのはどんどん消えていっています。
それが自分で面白いなと思っているところです。
タイに行って確実に変化したし、私の体は身軽です。

またタイに行く予定の私にとっては、
今いる日本での3ヶ月間は次の段階への準備期間みたいなものです。
つまり、この旅はまだまだ終わってなく、今その途中にいるんだという感じが実感としてあります。
だから生活をしているというよりも動いているという感じが常にあります。

というわけで、この3ヶ月間、自分で決めたこの時間の中で、
大量の仕掛けを日本で仕掛けていこうと思っています。

まず考えていることが、自分が見たり、きいたり、
感じたことを日本にいる多くの人達に伝えていきたいということ。
しかしその為の設定で、今までどおりのただの一方通行ないわゆる講演会にはかたまりたくない。
なぜかというと私は話が下手だから講演だけどと伝わらないというのもあるし、
人ってたぶん相乗効果のようなもので、
2人以上がいっしょに自分のことを相手に話していくうちに自分が一番納得したというようなことがあるように、
会話になって始めて分かり合えるということがあると思うからです。

だからいろんな立場の人達がいっしょに何かひとつのテーマについて話し合いながら
自分の経験も話せたらいいなと思っています。
しかしまだ考え中で、どうしたら一番伝わりやすいか良くわかりません。

次にやりたいこと。子供の絵の展示会。
私が3ヶ月間絵を教えていた学校の子供たちの絵を日本にもって帰ってきました。
彼らがいつもどんな風景の中に生活して、そしてどんなことを考えているのか、
子供絵の絵をじっくり見ることによってびんびん伝わってきます。まさに子供の生の声です。

  
タイの子供たちの絵

紙も満足にないときからスタートした絵の授業。そのうちクレヨン、
絵の具、色が加わって紙も大きくなるにつれて、子供が最初のころとは違って、
ちゃんと自分の作品として自分の絵を大事にするという変化が見られました。
そうして出来上がった子供たちの絵をぜひ多くの、特に日本の子供たちに見てもらいたいと思っています。

そこで次に考えたことがクレヨン計画。
子供の絵をはがきにしてそれを売るというのは今まであったと思います。
でもそれをお金とは換金したくはありません,というのも「お金」である、とそこに払ってあげている、
援助してあげているんだ気持ちが入ってしまうとそれは少し違う気がするからです。

私が一番タイの子供達のことを知ってほしいと思っているのは、
彼らと同年代の日本の子供たちです。
隣の席の子がみどりのクレヨン、もう使ってしまってなくなってしまった。
じゃ、僕の貸してあげる、というその感覚。
その隣の席の子がたまたまタイにいたというそんな普通の感覚で接してほしいのです。
絵を描きたいけど、クレヨンも足りない、かわいそうな子供たち、
という今までの先入観ではなくて、自分たちと同じ、泣きもするし、
笑いもする人間として接してほしいと思っています。そのために絵葉書を作ったときに、
お金ではなくて、家にある何でもいいんですけど、クレヨンや、画用紙や、
絵の具と交換してほしいなと考えています。
もちろんお金はあったにこしたことはないのですが、それは大人のやり方で、
子供のそれとは違う気がします。

そんなわけで、今やれること、やりたいことをつらつらと書いたわけですが、
言わないよりは言ってしまったほうが実現する率や、
運が圧倒的に高くなっていくのは体験済みなので、これからも大きく出ていきます。

12月26日(水)  第8弾「あけましておめでとうございます」

明けましておめでとうございます。とうとうタイでお正月を迎えることになりそうです。
今日は12月26日、昨日はクリスマスでした。仏教小学校は特に何のこともなく、
淡々と日々が過ぎていきました、と思っていたら、夜中にいきなり台湾から創設者
台湾人の坊主が白人といっしょにやってきました。この人と会うのは2回目ですが、
坊主という概念を覆すごっついパワーにあふれる人です。一緒に来た白人は、
8年タイにいる人でお互い英語(片言)、タイ語、中国語で時と場合によって使い分け、
でも通じ合っているのを見ると、国際的ってこうゆうことをいうのかもと一人で納得してました。

今いるクンユアムはタイのほんの片田舎という山と川に囲まれた所です。
でも、ミャンマーと国境を接していたり、ラオスに近かったりするので、
タイ人と思ってた人が実はミャンマー人だったりします。実際ここにいる8人の先生も、
タイ人は2人だけ、カレン族が2人、ヌア人(チェンマイ地方の人)3人、
イサーン人(ラオスに近いところに住む人)一人と細かく分けるとみんなバラバラだし、
それぞれ言葉をもっています。日本にいたら国際的って言ったら、
金髪白人と英語でペラペラ話すことぐらいしか考えつかないけど、タイ、
特にクンユアムの山に来ていろんな部族の村をみていくうちに、
な?んだ簡単なことだったんだと気がつきました。みんな違って当たり前だったのです。
みんな同じの日本で人と違うことを無理やり探そうとあせっていた自分がよく見えてきました。

タイに来ていろんな所を転々と巡っていくと、身軽な自分にわくわくします。
住む所も食べる物も着る物もどこにでもあって、何か一つに執着するという心が
どんどん消えていってるような気がします。どんどん一つずつ捨てていって軽くなると、
どこでも生きていけるという確かな自信が湧いてきます。
それと同時に自分を固めているものがはげてくると人の思いやりとか、
やさしい心が自然にしみてきて毎日うれしいです。
そんなことに気付いたら今年は大切な一年でした。
2002年はどんな一年に自分はしていくのでしょうか。どきどきします。

12月9日(日)   第7弾 「いきてまーす」

まつおかきょうこです。恒例の月に一度の山を下りる日です。前回同様ミャンマーに
行ってきて、昨日、今日とチェンマイ滞在です。

早いものでタイに来て4ヶ月。タイのテレビドラマの主題歌を自然に鼻歌としてふん
ふんうたってる自分にはっと気がつき、しみじみ感慨にふけってます。

先生生活はけっこううまくやっていけてます。言葉の方は子どもが勘の鋭い子が多い
ので、チェンマイで買った辞書片手に、かるーく冗談かますぐらいには成長しました。
通じあっています。

11月25、26、27日と3日間クンユアム地区小学校のスポーツ大会がありました。
うちの学校が参加するのは今年初めてだったらしく、校長先生を先頭に先生も生徒も
すさまじい気の入れようでした。11月は一ヶ月間授業は全部休み。ほとんどの時間
がこの3日間に向けて費やされました。

替歌の応援歌を作って、それをみんなで大絶叫。先生達の声はがらがらです。
選手に選ばれた子どもは毎日それぞれの種目の練習に励んでました。でもうちの学校
は超貧乏校なので高飛びのハードルはゴム飛びの輪ゴム。幅跳びの砂代わりに脱穀し
た後のもみがら使用といった具合。
私は絵が描けるという事で、生徒の帽子を紙で手作り、それに絵を描き、お面を作っ
たりマスコットを考えたりと美術の先生ここぞとばかりに大忙しで、あっというまの
一ヶ月でした。

そしてみんながまちに待った11月25日、スポーツ大会初日。タイのスポーツ大会
は行進からして半端じゃありません。
タイ人はどうも見栄っ張りなところがあるらしく、仮装あり、鼓笛隊付き、みんなお
そろいの体操着でさっそうと行進していきます。お金を持ってる学校はここぞとばか
りに自分の学校を宣伝します。
うちの学校も寄付のジャージを生徒は着込み、前の日は散髪があってすっきり。
そして応援ともなると毎日毎日家族同然で暮らしているうちの学校の団結力はすさま
じく、私もやっぱうちの子どもが一番かわいいわーとにやにや親馬鹿になりつつ応援
してました。

ところで流れ星みましたか?11月18日。よる3時。もうクンユアムは大自然のプ
ラネタリウム。電線も光も木もなんにーもない山の上で子どもと一緒に眺めてました。
星が降るというか、星って緑やピンクや紫やいろんな色があるんです。しらなかったー。
その日の昼は夜の星に向けて、おやつを作りました。カオランという竹にもち米を詰
めてつくる食べ物です。まず竹を切るところから始まってもち米をとぎ、ココナッツ
ミルクを甘く煮て竹に詰めて、たき火でじっくり1時間焼きます。ついでに芋も焼い
たりして満足満足という感じでした。

そして数日後、校長先生の畑で椰子の実が大量に収穫できたので、いきなりその日の
お昼からの授業は無し、夜はキャンプ。ということでみんな総出で今度はまた別のコ
コナッツのやもち米のおやつを作りました。

黒砂糖を削って大釜で茹でて、とけた黒砂糖と一緒にもち米をこねます。
出来たばっかりのもちおやつは実際熱すぎてあんまり味が分かんなかったけど、次の
日の朝に食べるとおいしさが増してました。
この日はちょうど満月で、空き地になってるところにテレビとビデオを持ち出してみ
んなで映画を見ました。即興満月映画館。

そんな感じの生活です。いいでしょー。とてもとても山の中なのですが、とてもとて
も楽しいです。
まつおかきょうこ

11月7日(水)   第6弾 「日本ジーン」

こんにちは。おひさしぶりです。ここ最近メーホンソン県のクンユアムという所にい
ます。クンユアムには日本語でメールできる所がないのでメールができません。今日は
ビザの延長をするために久しぶりにメーサイに帰ってきました。

メーサイを卒業していま何をやっているかというと、学校で絵の先生をやっていま
す。今いる学校は農業と仏教を通じて子供達の心を育てようという公立の小学校で
す。生徒は全部で150人います。先生は8人です。ここに通う子供達にはそれぞれ
事情があります。1,両親がいない。2,家が貧しくて子供が育てられない。3,親
元でシンナー、薬をやっていた。4,家が山奥にあって近くに通える学校がない。
5、元通っていた学校で問題ありだった。だいたいこの5つです。みんな親元を離れ
て寮生活を供にしています。

昔村だったところを改造してあるので,田んぼあり,河
あり,牛がいたりと大自然の中で,みんなのびのび暮らしています。全部で7つの家
(寮)があって,ご飯も自分たちで作ります。すごいちっちゃい子供でも巻き割りが
出来るし,火が扱えます。ちなみに巻き割を手伝おうとしたけど出来ませんでした。
毎日がおよそキャンプ生活。子供は自分の事は全部自分でやるので感心するばかりで
す。

午前中は普通に授業があって,タイ語,算数。などなど。そして午後から私が教え
る美術,そして宗教,体育,農業などがあります。美術は,月曜は一年生,火曜は2
年生という風に曜日ごとに割り振って,1週間で一年生から六年生まで教えます。今
までこの学校には絵の時間がなかったらしくて先生も生徒も興味しんしんです。折り
紙がかなり受けがよかったです。

今はこの学校に寝泊りして3週間がたちました。ちゃんと自分の部屋があるのです
が、同い年の女の先生と気があって部屋に居候しています。私の授業は彼女が手伝っ
てくれてます。授業のことで口論になったり,一緒に教材作ったり何だかとても忙し
い毎日です。

ここの学校は先生も生徒もみんな同じ所(村)で寝食供にしているので和気あいあ
いとしています。たとえば先生は生徒のことをルーク(娘,息子)と呼びます。生徒
はメー(お母さん)ポー(お父さん)と呼んでいます。ちなみに私はピー(お姉さ
ん)です。必然的に貧しい家の子どもは少数民族の村出身です。だからここの学校に
はアカ族,リス族,モン族,カレン族,ラフ族,タイヤイ、といろんな民族の子供がいま
す。みんなそれぞれの民族衣装を普通に着ててとても色鮮やかです。もちろん刺繍も
ちゃんと出来ます。こんな感じで先生生活がスタートしています。

こっちで子供が書いた絵は日本に帰る時に一緒にもって帰りたいと思っているので,
是非見てください。あと,要らない絵の具やクレヨン,画用紙など等,圧倒的に品不足なので
使ってない道具は寄付してくれたら嬉しいです。最近自分が日本人であることをすごく強く
感じます。自分の役割,例えば今だったら、この学校に対して,日本人だからこそ出
きることはなんだろうと今いろいろ考え中です。自分にしか出来ないことがある,そ
れを見つけることが出来て,更に実行できればすごく自分の自信にもつながると思い
ます。そんなかんじです。明日はチェンマイに下りて道具の買出しにいってきまー
す。松岡きょうこ

10月2日(火)  第5弾 「えんどれす」

2ヶ月もタイにいると、それなりにあちらこちらで友達が出来てきます。
そんな中チェンマイでは貴重な体験を3つしました。
一つめはタイの留置所に行ったこと。2つめは刑務所プラス裁判所に行ったこと。3
つめはチェンマイ大学の学食でご飯を食べたことです。

元チェンマイ大学生の彼女はタイ人の彼氏がいます。そして彼はヤバーという悪い薬
をひと粒持っていたために警察に捕まってしまいました。彼も、彼の周りの友達もほ
とんど全員捕まりました。

最近警察の取り締まりが厳しくなったらしく、コンビニで12時以降のビールは販売
されていませんし、若者向けのディスコは12時で終わりです。

彼女が彼氏に会いに刑務所に行くというので着いていきました。日本でも刑務所なん
て遠い存在なのにタイの刑務所って。。っとちょっとわくわくしながら興味津々で
す。

刑務所に着きました。面会なんてさぞ悲壮感漂うところだろうと思いきや!!家族連
れのおばちゃん同士が世間話をしているわ、そしてその横を山岳民族の集団が美しい
衣装で通り過ぎ、その隣りでは子供がおしっこを漏らしていました。

ここは昼下がりのどっかの公園ですかー?と疑いたくなるその刑務所は手続きも簡単
なもので紙に名前を書いて名前を呼ばれるのを待つだけ。しかし、彼はその日裁判
だったらしく、裁判所の方に行けといわれました。

えっ!?この上さらに裁判所まで行けたりするの?さらにおいしいと思った私は彼女
についててくてく歩いていくと、いきなりそこが裁判所でした。衣装からしてモン族
らしい一団が芝生の上でお弁当を広げています。

警官に言われるまま階段を降りていくとすぐ目の前が檻になっていて彼が柵にへばり
ついてました。茶色の囚人服を着て足には足かせがはめられています。電話で透明の
板ごしに話します。彼と彼女は話は出来るけど、触れることは出来ません。これこ
れ!!これがほんとの刑務所ってもんでしょう、とひとり感動していたら、彼が手招
きしています。おやっと思い指をさされた方のドアを見ます。彼女が慣れた感じで歩
いていきドアを開けると、そこはまるで家族の団欒室。囚人が普通に家族と手を取り
合っておかし食べながらごろごろしています。なんだそれ。

先に外に出てボーっとしてるとさっきのモン族集団が紙切れを持って喜んでました。
きっとよい結果だったのでしょう。それにしても裁判所でお弁当なんて。ピクニック
じゃないんだから。とつっこみかけた私の前を手錠をかけられた一団がぞろぞろと
ひっぱられていきました。
やっぱりここは裁判所なのでした。

山岳民族が多いのは訳があって、やっぱりヤバー、麻薬で捕まる人が多いのと、タイ
では禁止されている焼き畑をやったために捕る人がほとんどです。生活のための焼き
畑。そうすることでしか生きていけない人々。そうして取り残された家族は町へ降り
てきて、花売り・売春、物乞いをしてお金を稼ぐのです。そうして稼いだお金
は。。。こうして延々とタイの悪循環はエンドレスに続いていくのです。

9月30日(日)

こんにちは。
ここ、メーサイの生活は朝子どもを学校に送り出した後、まだ学校に行けない子供た
ちと川で泳いだり、絵を描いたり、サッカーをしたりして遊んでいます。元ストリー
トチルドレンの子供たちはアカ語を話すアカ族の子どもなので、ある程度タイ語がで
きないと学校へ行くこともできないのです。学校へいっている子供たちも本当に学校
のタイ語で行われる授業についていってるのかよく分かりません。算数の宿題を見て
る限りではあんまりよく分かってないようです。

でもここの子供たちはとりあえずは物乞い生活から抜け出しているわけですが、
メーサイ、ミャンマー川のタチレクの間にかかる国境の橋にはまだまだたくさんの子
供たちが外国人相手に物乞いをしています。そういうわけで、夜は故郷近くのセブン
イレブンで子供たちといっしょに絵を描いたり、ゲームをしたり薬を塗ったりしなが
らその子の家族関係や、住んでるところなど情報を引き出すフィールド調査も行われ
ています。

一ヶ月近くもいると向こうも顔を覚えてくれてピーキーコ、キーコ(ピーはお姉
ちゃんという意味。キーコは’キョウコ’がうまく発音できないから)と大声で叫び
ながら飛びついてきます。子どもはくすぐられたりするのが大好きです。セブンイレ
ブンのドアが開いて、そこから出てきたお客に物乞いしたかと思えばすぐに走ってき
て遊びの続きをやったりします。でも夜は車も多いし、そんなに車ががんがん走って
るところを子どもが平気でふざけながら走ってるので見ているこっちははらはらしま
す。

子どもは物乞いをして稼いだお金を何に使っているかというとシンナーです。黄色
いボンドがタイでは6バーツで(18円)売られています。それをビニール袋に入れ
て車の影などですっています。昨日はたまたま独りでセブンの近くまできたので、顔
なじみの子どもと話していました。もう一人向こうから6歳の子どもが私を見つけて
近づいてきました。でもなんか臭いのでポケットチェックをするとやっぱり袋が出て
きました。黄色いねばねばがついているし、匂いですぐに分かります。その子どもは
シンナーを吸ってらりっているので、逃げようとしても足がふらふらでうまく歩けま
せん。袋を取り上げて、あげないよといったらラリラリの彼がいきなりかみついてき
ました。手に噛み付きながら袋をもぎ取ろうとするのです。最初に話していた子ども
が助けようとしてその子をバンバンたたいてもぜんぜんだめです。目の前の屋台のお
じさんがこれに気づいて助けてくれました。

うちに帰って先生に話すと、らりってる子どもからシンナーを取り上げることは赤
ちゃんからミルクを取り上げるようなものなので、そういう時は黙ってみてるしかな
いそうです。しかもそういう状態のときに何を言っても通じないし、また別の日の普
通の状態のときに、話すほうが彼らも考えることができます。頭ごなしにシンナーは
だめ。物乞いはだめ。学校で勉強することがいいことだと教えることはできないし、
そういうやりかたはしたくないです。こちらは情報を与えるだけです。結局考えて決
めるのは本人なのです。そういうことをたくさん勉強した日でした。

9月19日(水)

私の生活は一日約100バーツ(300円)の生活です。
宿泊費は、今は施設に泊まってるのでタダです。そして食費も子ども達やスタッフと
一緒に食べるのでタダだし。だから使うといったらメール代。一時間30バーツ。
ちょっとしたお菓子などなど。ビール30バーツ。一食約20バーツ(60円)の世界だか
らお酒は結構高いです。

ゲストハウスに泊まったり、移動が多い旅をしているとお金は結構使ってしまいます
が、私は定着しているのでお金は余り減りません。というより今いるメーサイではお
金の使いようが余り無いのですが。

というわけで日本で年金もらってタイで優雅な生活を送ってる人も結構います。メー
ル屋にいるとそんな日本人のおじいさん達がふらーっとあらわれます。たいていパソ
コンの使い方がよく分からない人たちなので、メール屋で会うと機械の説明をさせら
れます。その代り、戦中戦後の貴重な実体験込み、日本はいかに腐ってるかという講
義を延々としてくれます。お互い日本にいても余り話す機会のない世代なので面白
がって話し込んだりします。

それにしても最初に100バーツとかいたのですが、これは結構贅沢した日です。タイ
に2ヶ月もいると感覚がすっかりタイ人になってきて、100バーツはけっこう貴重なの
です。

9月18日(火)

ここ一週間ぐらい、私はメーサイを離れてカレン族という村に行ってきました。何をし
にいったかというと、うちの施設のタイ人の先生がカレンのむらの村おこしに関わっ
ているらしく、その調査も兼ねてということでおもしろそうなのでついていきまし
た。

場所はメーホンソン。ここもまたメーサイと同じくミャンマーとタイの国境沿いに
あるところで、日本では首長族の住む所として一個の村が観光地化されているので
知ってる人は知ってるかも。

しかし実際のメーホンソンはタイのはきだめです。タイで一番貧しい県で、役人も学
校の先生も都市部で問題があって流されてきた人々が多い、いわば左遷の地なのだそ
うです。メーサイや隣のターク県は有名で世界各国からさまざまなNGOがはいってき
ているけれど、メーホンソンは手が付けられないのか取り残されている状態だそうで
す。

メーホンソンまでは、メーサイから一旦チェンマイまで下りて、そこから車で約5
時間。全行程通しで約10時間の道のりです。メーホンソンにはスーパーハイウェイ
がありません。(タイは道路事情がよくってどんな山の中でもきれいな道路があった
りするものなのです)がたがた道をどんどんどんどんのぼっていきます。もうまわり
は畑だらけの山だらけ。2、3日前に降った大雨のせいで川の氾濫した後もみえま
す。そうしてやっとたどり着いたパガニョーの村。パガニョーとは日本でいうカレン
族のことで、ガリヤンといういわれかたもしますが、これはタイのタイヤイ族が名付
けた蔑称でパガニョーの人々はこの呼ばれかたが嫌いです。

こういう呼び方をするというのには必ず歴史的背景、理由があるものです。タイの
タイヤイ族と、ミャンマー国境に住むパガニョーの人々。ここにはたくさんの紛争の
歴史があって、私がお世話になっていた村はそうした前線地から2、3キロと離れて
いない所でした。カレン開放同盟という名前もしょっちゅう話に出てきます。そうい
えば大学のときにゼミでやったなー、でも全然覚えてないよーなんて悔しがってたら
まさに、泊ってた家がそのリーダーの親戚筋でした。やっぱり勉強はしとくべきで
す。メーホンソンは、そういう国と国の思惑がジトーッと絡んでいる所なので、
NGOどころかタイ政府もこの地の貧困ぶりを見て見ぬふりしているわけです。

お世話になってた村には学校が一つあって草ぼうぼうのグラウンドがありました。
ある日昼間に子供が遊びに来てふと、なんで?学校は?と思って聞いたら、今日は先
生がいないからお休みなんだそうです。なんて適当な。というわけで、男の子はサッ
カー、女の子はバレーをして遊んでました。

村の生活は、テレビでやってる「世界うるるん滞在記」、まさにあれを想像してくれ
れば分かり易いかと思います。昼は山に入って、その日食べるぶんの食材は自分たち
で収穫。豆をつんだりトマトや唐辛子をちぎります。卵は床下で飼ってる放し飼いの
鶏が産むし、豚も飼ってるし、村には小さい雑貨屋もあるしで、全てがある。無い物
は作る。つくれる才能!!全てが完全自給自足体制。ほんとに世界最強強いのは山の
民と海の民だと実感しました。

夜は星がきれいで、ホタルもとんでるし、パガニョーの手作りとうもろこしの密造
酒を飲みながら虫を食べました。虫?むしです。白いうじ虫型のおおきいやつ。油で
揚げてあって食べてみるとフライドポテトの味がしました。まさに、つまみってかん
じです。
しかし何でも「アローイ」(美味しい)「アローイ」で食べてた私が唯一まずいと
いったもの、それは山の人の歯磨き粉。山の人は虫歯防止に、特別な樹の葉っぱをか
んでいます。ずっとかんでると赤い汁が出てきて、それをぺーッと外にはいて、また
かみかみするわけです。最初家の床下や道のあちらこちらに赤い点々があって血しぶ
きかー!!と思い恐かったけど、その正体は「ビンロウ樹」でした。漢字はよく分か
りません。でもこれをかんでるおかげで、山のおばあちゃん達は虫歯知らずなのだそ
うです。

パガニョーの伝統衣装もオーダーメイドで作ってもらうし。短い滞在でお客さん扱
いだったからだろうけど、村の暮らしは相当面白かったです。
またかきまーす。

8月29日(水)

今松岡は何をしているかというと、タイとミャンマーの国境の町メーサイという所に
います。メーサイには貧国ミャンマーからタイへ逃れてくる人たちの入口となってい
ます。ここで一つ付け加えなければいけないのが、ミャンマーから逃れてくる人たち
は、少数民族であるアカ族の人たちがほとんどであると言う事です。彼らは傾斜45
度の山で陸稲や果樹園を作り、素晴らしい独自の文化である刺繍を作りながら全てが
自給自足できる生活しています。実際に見せてもらった刺繍はほんとにすごかったで
す。
そんな生活を送っていたアカ族が、ミャンマーへ入国する外国人目当てに物乞いを
してお金を稼ぐようになりました。山で辛い農業をやっているよりもただつったって
いるだけで一日100B(300円)の収入になる物乞いの方がよっぽど楽に稼げる
からです。しかも彼らはアカ語を話します。タイ語を話せない、しかも不法入国で
IDカードを持たない彼らがタイでまともな仕事につけるはずが無いのです。実際こ
こメーサイの売春宿の値段は他の地域にくらべてずいぶん安いそうです。それは多く
がミャンマーからきた人たちであるからだし、ここメーサイには1年も何年も沈没し
ている日本人がけっこういます。
自分の意志できた大人はまだいいけれど、その子ども達は、自分が何をやっている
のかわけも分からないうちから物乞い生活がスタートします。母親はより小さい子ど
もを背負っていた方が外国人の同情を引き、より多くの収益が得られる事を知ってい
るのです。また同じようにまだまだ小さい子が赤ちゃんを背負って物乞いするという
姿もあちらこちらで見られます。物乞いが恥ずかしい年齢になってくると大金求めて
麻薬の運び屋や、売春婦となって、チェンマイやバンコクなどの都会へ出て行き、そ
の多くがエイズ、くすりづけとなって死んでいってしまうのです。
タイは何処に行っても表面上は微笑みの国だけれども、すこし長く居るとかなら
ず、この麻薬、エイズの問題が浮き上がってくるのです。
日本ではエイズへの関心はどれくらいあるので
しょうか。日本にいる時はまったく新聞もよまない、本も読まない、勉強してないの
でわかりません。でも皆エイズに関しては遠い話だと思ってると私は思います。しか
し、いろんな所で話を聞いたり、データを見せてもらうと、日本のエイズ患者は相当
な数なのです。タイではエイズといっても普通になってしまって差別や偏見はほとん
ど無いようなので、公表する人は多いです。でも日本はどうでしょうか。タイの売春
婦が、ドイツ、アメリカ、香港とまわって最後の日本でエイズになったという話もあ
ります。これはいったいどういうことなんでしょうか。日本を離れてみるとそのボケ
ボケした日本人感覚がほんとに心配です。政府も正式なエイズ患者の数は公表してい
ないみたいだし。
話はそれましたが、そういったいわゆるストリートチルドレンを集めた子どもの家
に今お世話になっているわけです。そして私は大量の葉書きサイズの紙と絵の具をこ
こに持ち込んで、子ども達に絵を描いてもらいました。それを使って日本で何か出来
ないか考え中です。それでは。またこのつづきはこんどかきます。

8月8日(水)

日本語ばっちり使えます。今日は久しぶりにチェンマイの都会に帰ってきました。な
ぜチェンマイが都会かというと、今私がお世話になっている谷口農場というのはチェ
ンライのパヤオ県というチョ?山の中にあって、ボールペン一本すらかいに行くのに
車を必要とするところだからです。こっちの生活はかなり充実しております。谷口先
生というのは実はかなり有名な人だったらしくって、ここに居ると色んな人にあえま
す。例えば、先週はJICAの専門家研修生の方々が来ました。協力隊OBや、獣医
さん、農林水産省のエリートが、専門家になるべく、農場をおとづれました。そし
て、青山学院大学のサークルも来ました。ここに来る人たちはみんな意志が強くっ
て、影響されまくりです。そして私は何をやっているのかというと、そういう人たち
のために用意された研修プログラムにくっついてまわっているところです。パヤオ県
チュン病院というタイで一番エイズの問題に関してのプロジェクトが成功している病
院にも行きました。そこで神戸大学の医学生、青学、JICAを交えて、婦長さんと
英語で討論もしました。でも私はさっぱりわかんないので、聞いてるだけっす。あ
と、むらのエイズ患者と実際に交流したり、夜は谷口先生の講義があったりと結構
ハードな毎日です。
谷口先生は山岳民族の問題にも取り組んでて、農場でたくさんの優秀な人材を育てま
した。それぞれが、アカ族、ラフ族、モン族のリーダーとなって、子供たちのために
寮兼農場を建てています。
山岳民族の子供たちはそれぞれが自分たちの言語を持っているので、タイ族となじむ
のは大変なことなのです。でもタイの学校に行かないと、タイで生きていくことは出
来ません。先週リス族の子供たちのために寮を経営している中野穂積さんという日本
人の方にお世話になってきました。中野さんも谷口先生経由で知り合った人で、個人
ボランティアです。しかし、この人も相当有名人だったらしく、タイで、個人ボラン
ティアをやっている人たちのネットワークを持っていて、今度はこちらを頼ってみよ
うかなと考え中です。
というわけで、こっちにきて農作業をやった日というのは1日2日程度なもんでしょ
うか。毎日毎日新しい人と出会えます。そして、その人たちから今までおとづれた寮
や、学校などの情報を仕入れて、今動いています。本当はラオスも行く予定だったけ
ど、まだまだ北タイをうろうろしてそうなので、明後日当たりにミャンマーへ一時入
国してビザを延長してきます。近況はこんな感じです。
今までの旅とは全然質が違います。もう毎日が勉強で、許容量のない私の頭からは煙
が出てきそうなくらいの勢いです。それでは。


Project “Water Vision” Presents.