続・松岡享子の「タイで学校を建てる」までの道
- 国際支援活動
- 2016/07/01
続・松岡享子の「タイで学校を建てる」までの道
今年2月まで、半年間タイで活動していた松岡享子。軍資金をためた享子は5月再びタイへ向かった。今回も彼女の珍道中を報告します。
6月14日(金)第4弾「人と出会って考えた」
こんにちは。私は今ラオスにいます。
タイという国はビザなしだと30日間まで滞在することができます。
それで、ビザを取ってきていない私は今まで一ヶ月に一回
ミャンマーとタイの国境の街タチレクに出国して
タイにいられる日数をかせいできました。
ところが、アウンサンスーチー釈放のニュースで興奮した若者による暴動のため
ミャンマーへの国境の門は閉ざされてしまったのです。
というわけで、今回私は急遽ラオスへ旅立つことのなりました。
ラオスにくる前、またもやタイでいろいろあったので書きます。
今回タイにきた目的の中のひとつに知り合いをたずねるというのがあります。
一人は大学時代の友達で、アユタヤ近辺のスパンブリーというところで、
中学生ぐらいの子供達に野球を教えています。
彼は野球をタイに広めるために
JICAから派遣された青年海外協力隊員です。
彼の任期は2年間で、今ちょうど10ヶ月目がたったところでした。
まずバンコクからバスに乗り込んだ私はスパンブリーを目指しました。
学校に着いてみるともうすばらしく設備の整った学校で、
タイでは10校しかないスポーツ学校の中のひとつで、
大学も併設されていました。
野球はタイではかなりマイナーなスポーツらしく、
この学校もサッカーは強豪で有名らしいけれど、
野球はまだまだという感じらしいです。
タイの学校には基本的に部活というものがなく、
運動に興味がある生徒のために特別に作られたのが、このスポーツ学校らしいのです。
私が着いた問い時には夕方でちょうど生徒がそれぞれの部活に励んでいるときでした。
野球部も隊員の友達から指示をうけて走っていきました。
疲れて寝てしまった私がふと気づくと、回りは部員で埋め尽くされ、
バッティング用のボールを新聞紙とガムテープで作っているところでした。
次の日観光がてらに近くのカンチャナブリー、
(映画戦争にかける橋で有名になったところらしい)にいってきました。
日本軍の悲惨な仕打ちによる、
各国の捕虜によって完成した鉄道を歩いて渡ったり、
と久しぶりに観光らしき観光をして少し疲れてしまいました。
そこから私の体は少し変だったのかもしれません。
私が泊まった学校の部屋が余りにもエアコンが利きすぎていて、
私は見事に現代の文明の機器に打ち負かされてしましました。
39.5度の高熱。こんなの日本でもめったにあることじゃありません。
ほんとに一人じゃなくてよかったー、とコーチや友達に散々迷惑をかけて、
暖かく看病してもらい見事復活。
それにしても今流行りのデング熱じゃなくてよかった。
それにしても協力隊というのは
ほんとにすごい人数が毎年海外に送り出されていて、
そのネットワークたるや恐るべしという感じです。
なぜかというと、タイにきて、
もう一人会いたかった人に見事つながっていたからです。
私がタイにきたら会いたかったもう一人の女の子。
彼女はタイ東北部のマハサラカムという県の村で生活しながら農業、
生き方を学び取っている女の子です。
といいつつも私が彼女に関してもっている情報はほんとにそれぐらい。
実はまだ会ったこともなかったのです。
彼女が3ヶ月に一回発行している自分のニュースレター、
そしてそこにかかれた住所だけが頼りです。
私が彼女に興味を持ったのは、同じ時期にタイにいたということ。
(彼女は去年10月から村にステイしていて、一年間村で過ごします。)
しかも農を通じて、自分の身の回りに付いて考えているということ。
しかも私が日本に帰ってきてから友達になった静岡大学の友達。
みんなすごくおもしろいひとばかり。
その彼らほぼ全員と彼女がつながっていたこと。
それが一番の理由で、ぜひあいたーいと思ったのです。
言ったことも聞いたこともない、それがマハサラカム県でした。
地図で調べてみると、どうやらそれは東北に位置することがわかり、
野球協力隊の彼に何気なく聞いてみると、
なんとマハサラカムに隊員が2名入っているということでした。
早速電話をかけて、そこの村までどうやっていくか聞いてくれることになりました。
一人目はまったくそんな村聞いたこともないということで、
あきらめ、もう一人の隊員にかけてみることにしました。
しかしもう一人の隊員も聞いたことがないといっています。
23歳ぐらいの女の子で、一年間村にいて農業をしている日本人なんです、
と粘ってみたら、そんな話をあるタイ人から聞いたことがあるということ。
その人が早速そのタイ人に確認を取ってくれて、
どうやら本当であるらしいことがはっきりしました。
マハサラカムの協力隊の人が10,11日ならば
一緒に村まで行ってくれると言うことで、
私は10日、彼女を探しに行くことに決めました。
朝、バス停に着いた私を協力隊の沙織さんが迎えにきてくれました。
始めてあったのにとてもよくしてもらって午前中は沙織さんが
活動している村につれていってくれました。
沙織さんは青少年活動というのをやっています。
任期の2年間ももうすぐ終わりで、
今月末日本に帰るというけっこうあわただしい時期のようでした。
沙織さんがいる2年間の間で村にはとても立派な公園ができていました。
そして学校にはJICAに申請していたお金が下りて、
立派な遊具と絵本が進呈されました。
そこの小学校で遊んだり、
先生達にお昼をご馳走になっているうちに3時になりました。
沙織さんの知り合いのタイ人の人がバイクで着てくれて、
3人で村を目指すことになりました。
街を抜けるとあっという間に目の前に広がるのは田んぼと山です。
遮るものが何もない大地と、大きな空、とてつもない雲の動きも丸見えです。
そんな田舎道を15キロほど行ったところに村の入り口が見えてきました。
そこからは舗装されてない牛糞まみれる凸凹道です。
雨上がりの道をさらに3キロほど進むとそこには集落が見えてきました。
まず私達は村長さんの家にお邪魔して、
この村に日本人がいることを確認しました。
何も言わないのに、得体の知れない私達に
水を差し出してくれた奥さんが家を教えてくれました。
行ってみると彼女はきのこ売りに行ってていないということ。
その場所をおしえてもらい、
またきた道を戻っていくとある集会場が見えてきました。
あとから聞いた話で、そこは、村人の村人による、村人のための、
共有林ネットワークという組織であることがわかりました。
どう言うことかというと、森とともに暮らし、
自分達の食べものがすべて森があることによって得られる、
森は生きるための最高の食の宝庫であることを真実として知っている村人達が、
森を守るために始めた活動の本拠地だったのです。
10日にいくということは速達の手紙で伝えてあったので、
お互い会いたくて会いたくて、やっと会えたという感じで興奮気味です。
彼女に共有林ネットワークのことや、守っている森を見せてもらいました。
ユーカリの林と自然の森、その違いを見てください、と彼女は言いました。
外貨目的で大量に植えられたユーカリの木、そしてその隣には多種多様の木々、
虫そして動物を内包する昔から続いてきた森。
その両者の違いは見れば歴然としていました。
森は自然。ユーカリは不自然。単一化した、
一種しか育つことのないユーカリの林は
死んだ木々の群れのように見えました。
村で今日食べるものは自分達で森や川、田んぼから収穫し、
自分達の身の回りにあるものを最大限に活用して
最高においしい料理に仕上げるそのすばらしい知恵。
そんな彼らと毎日をともにして、
そらと大地と森のありがたみを体で知っている彼女の言葉は、
日本にいながら世界の森を守りましょうと大声で叫んでいるどんな大人の言葉よりも重みがあり、
真意罪があるものでした。
作ること、収穫することを放棄してわざわざ遠くのみ知らぬ土地から取り寄せたメロンとステーキ、
そういうものがおいしい、最高の贅沢なんだ、
なんていってる日本人はこの土地に暮らす人たちに吹き飛ばされてしまったほうが言いようです。
そのまま私と彼女は沙織さんの家に泊めてもらうことになりました。
そして夜、ほんとにいろんな話をしました。
さおりさんはJICAから派遣された協力隊員。
村にステイしている彼女はNGOから派遣されたインターン生。
そして私は旅行者です。
3人とも国際協力、何かそういう仕事にかかわっていきたいと思っているのですが、
アプローチの仕方は人それぞれ。
おかれた環境がまったく違うのです。
たとえば協力隊員には毎月隊員の生活費、航空券代、薬セットなど、
ありとあらゆる待遇つきでちょっと甘やかしすぎるんじゃないのと思うぐらいです。
しかし、NGOで入った場合すべてが自腹、
派遣された彼女のNGOはまったくといっていいほど面倒は見てくれず、
すべてを自分で決断していかねばなりません。
収入どころか出費の毎日です。
隊員には県で一番いいアパートが用意されていて、
もちろん街の中心地。
部屋にはコーヒーやカセットテープ、
本等など日本の一人暮らしと間違うかのようなものにあふれた生活っぷり。
それでまかなえるくらいのお金が支給されるのです。
方や村にステイする彼女に部屋はなく、
やっていること丸見えの家族スペースの片隅が彼女に居場所なんだそうです。
それでも毎日の食事は最高においしく楽しいんだそうです。
何がよくてなにがわるいのかはよくわかりません。
しかし、天からお金が降ってくるようなやり方は
余りにも単純なやり方で危険であると思います。
2人の協力隊員と会ったわけですが彼らから裏話として報告書だけ書いて後は
遊びまわっているような隊員もいるという話しも聞きました。
でもそんな協力隊員も専門家として派遣するのに比べれば個人の単価も安い、
しかもアピール性もあるのでなくなることはないそうです。
それどころか今後増やしていくという話も聞きました。
協力隊員を受け入れるという名目で、
ただ単に村、施設にお金が入るようにしているんじゃないかというようにも見えました。
必要なのかわからないけれど、箱(施設)を作ることによって
自分が2年間いたという証を作っているようにも見えたし。
ほんとのことは2年間その土地にいたわけじゃないのでわかりません。
でもさっき書いた設備のものすごく整った学校のエアコンのきいた教室
野球のボールを作るのに大量のガムテープが山積みにされているのを見ると、
私がいた小学校ではそれ一つだけでも有難いのになーなんて考えてしまいました。
本人達もこれだけお金が国から出ていることに疑問を感じていました。
さっきのユーカリの木のはなし。
それを推進してきたのはJICAだそうです。
一体誰のために、誰が一番儲かる仕組みになっているのでしょう。
たくさんのどろどろした矛盾点が見えてきます。
お金はあるにこしたことがないとはよくいうけれど、
あればあるほど頭が麻痺していくように感じます。
何にも考えられなくなって、体を使ったり、頭を使って
知恵を絞るということからどんどん遠ざかっていきそうです。
ただ私は通り過ぎるだけの旅行者で、点で見ることしかできません。
でも旅行者であるからこそフットワークは軽く、
その点の種類もあらゆる角度からのものにしていけると思っています。
結果、その点がつながって交差した線となっていくのが楽しみです。
身軽。それを最大の武器にこれからも旅は続きます。
6月1日(土)第4弾「タイ、カオサン通りのおかしな日常」
タイに帰ってきました。
今いる場所はバンコクの片隅カオサンロードというところです。
カオサンという名前はある人たちにとってはとてもとても有名な通りです。
世界中を旅する人たち、格安で、そういった、
いわゆるバックパッカー御用達の街がここなのです。
街といっても200メートルぐらいの通りにぎっしりやすーく泊まれるゲストハウスや、
食堂や、旅行代理店がひしめき合っているのです。
ここでご飯を食べていようものなら、ここはすでに出会いの広場。
カンボジアでであった旅人にまた再会したり、その友達が、また3年前にインドで
であった別の旅人にぱったりあったりと、ここではそういう事が当たり前です。
カオサンは危険で、できるだけちかずかないほうがいいデンジャラスゾーンなことは確かであるけど、
国籍、年齢、過去、経歴、何にも問わずに受け入れてくれるやさしい、
街という言い方もできるでしょう。
夏に旅をしていると、ここカオサン通りは夏休みの学生だらけで、白人、特に日本人で一杯になります。
でも少し時期が外れている、特に今なんか、日本を離れてきてる人なんて、相当変っている人ばかりです。
仕事、学生という縛りがない旅人たち。
長期旅行者が必然と多く、その経験値たるやレベルはぐんぐん急上昇です。
お金がなくなったからオーストラリヤかイスラエルでもいって金ためるかー、
(仕事するということ)言う会話が日常で、
じゃ、2年後の今頃カオサンでね!という別れ言葉をはいて旅立っていく人も、これまた日常です。
自転車で3年間走り続けていたり、ヒマヤラの山へなんとなく登ってしまったり、
ムエタイ修行していたり、もうここにいる人たちを見ていると、何でもありなんだなと思えてきます。
いやーほんとになんでもありです。
色んな国の人たちがたくさんいるので、今の話題はワールドカップ!
私の泊まっている宿は、韓国人、日本人半々の安宿です。
けんかでも起きなきゃいいけど、とちょっとわくわくしています。
昨日食べに行った食堂では、アフリカのマサイ族の人たちが、
フランス、セネガル戦を観て大熱狂してました。
こんなに世界でも珍しい、多種多様な人たちが集まるこのとおりはホントに見ていて飽きないです。
5月25日(土)第3弾「ボランティアって何だろう」
こんにちは。
ここカンボジア、アンコールワットの眠る町シェムリアップに到着して
はや一週間がすぎようとしています。
観光目当てでちょろっと寄ったカンボジアだったのに、めまぐるしいスピードで、
人に出会い、またシェムリアップは狭い街なので、人が人を呼んで、
またもや観光とは一線ひいたコアなカンボジアに触れる事が出来ました。
バイクの後ろにまたがり、浴衣をぱたぱたとひらめかせ、
ほこり舞い上がるシェムリアップを疾走した日本人は初めてかもしれません。
ぱたぱたしながら到着したのは鬼一二三(おに ひふみ)さんという日本人の方がつくられた、
シェムリアップでは初の日本語学校です。
朝6時からよる9時まで、仕事の合間を縫ったカンボジア人が
毎日一時間づつ授業を受けに学校へやってきます。
先生は鬼さん一人だけです。
そこで私は日本から持ってきたお茶の道具でお茶の先生をやりました。
浴衣を3着持っていったので、自分が着て、後の二つは、各授業から生徒2人づつに着せて、
お茶を点てました。カンボジアは同じアジア人なので、浴衣がほんとによく似合います。
日本にあこがれている人も多く、浴衣はかなり好評でした。みんなとってもかわいかったですよ。
ほぼ全員にお茶を点てて、お菓子の食べ方から、お辞儀の仕方、お茶の飲み方、
間に交わされる挨拶など、簡単な作法を一緒にやりました。
足が痺れるーといいつつも、お茶は美味しいと言ってくれました。
みなさんとっても字が奇麗で、話す日本語もとても奇麗な日本語でした。
ここはカンボジアだという事を時々忘れてしまうぐらい
最初のイメージとはかなり違うとても住み心地のよいところです。
でもお茶碗を回す手に指が無かったり、
私のとまっているゲストハウスのオーナーの指がちぎれていたりとそういう処にはっとします。
地雷の被害を受けた人を支援する自立支援センターに行ってきました。
たまたま知り合った長期滞在の日本人の人から教えてもらいました。
センターには広大な農園があって、
バナナやらマンゴーやらいろんなジャックフルーツの木が野菜と一緒に植えられていました。
農業を使って自立を図ろうとしているところでした。
センターには42家族が暮らしていて、
親がみんな手が無かったり、足が無かったりで働けない人々でした。
その子供たちに日本語を教えたり、
子供と遊んだりと、日本人ボランティアのスタッフがいました。20代前半の3人です。
全くの無償で、一人は一年間居ると決めていました。
私はそこに、もちろん浴衣でいきなり行ったので、最初はビックリされたけど、
年も近いので、すぐに歓迎してくれました。
子供たちと一緒に絵を描きました。
タイの子供と同じような絵を描きます。とてもなつかしくなりました。
シェムリアップはアンコール遺跡のある町、観光の町なのでとても奇麗です。
でも少し離れるとカンボジアの人達の、しかも村の生活が広がっています。
村の生活はとても貧しく、センターはそういう村の中にありました。
家は隣と境があって全く無いような丸見えの家です。
作った代表の方は日本に居て、時々カンボジアへ来るそうですが、
全権はその人一人に委ねられているそうです。
カンボジアに住んでもいない人が、現地の事情や、お金の管理が出来るのか、
そしていったい何が必要とされているのか、それがわかっているのかも疑問でした。
それゆえ悩みながらも一生懸命模索しつつ頑張っていました。
代表にもまだあったことがないそうで、メールのやり取りでカンボジアまでやってきたそうです。
彼らは日本語を教えていました。
時間どうりに授業を始めて、その時間の合いだ、机に座らせている事、
それが出来るまでにも相当苦労したみたいです。
子供たちは、彼らの頑張りのかいあって、日本語の会話がちょっとで来ます。
そして日本語の歌が5つもうたえました。授業の終わりには毎日歌うそうです。
私は第6番目として、ぞうさん、を教えてきました。
ここのセンターや日本語学校に行って、ボランティアって何だろうってすごく考えました。
自己満足で良いという人もいるけれど、それでは相手に迷惑です。
最終的に満足しているのが誰なのか、日本人によくありがちな、
勝手に自分達が盛り上がってしまうようなやり方が、余りにも多いと思います。
ボランティアというと、金持ちの国よりは、貧しい国、貧しい国の中でもハンディキャップを持っている人、
ボランティアをやりたいがために、そういった対象を見つけだそう目を輝かせるような事だけにはなりたくないと思います。
実際そういう人達、特に年を取ってお金に余裕がある人に多いです。
そんな風には絶対なりたくないです。
こんばんわ。今日、鬼一二三(おに ひふみ)さんという方に会って来ました。
彼女はカンボジア、シェムリアップに来て、何もないところからスタートして7年、
一二三日本語学校という日本語学校を建て、
シェムリアップで始めて日本語教育をスタートさせた方です。
アンコールワットが観光名所であるシェムリアップにおいて、
日本語が出来ると言うことは、ガイドという仕事をはじめ、とても良い収入源になります。
一二三先生は、独りで朝6時から、夜の9時まで、約170名のカンボジアの生徒に日本語を教えています。
私は大学の時の先生から一二三先生のことを知りました。
シェムリアップに日本語を教えている人がいる。
カンボジアに行くなら会いに行っておけ。と、電話番号と住所を書いたメモ書きがあったのですが、
それをなんと日本に忘れていってしまいました。
ここまで来といて、どうしても会いたかったので、
片言の日本語を話すカンボジア人にかたっぱしから鬼さんのことを聞いてまわりました。
手がかりは名前が珍しく、覚えていた「鬼」という名字だけ。
それが、たまたま泊まっていたゲストハウスに遊びに来ていたカンボジア人が、
日本語を習っているというのです。
その人が、ヤマモト、ヤマモト、と連発するので、とりあえず連れていってもらったら
、「山本日本語教育センター」というところでした。
聞けば日本語を教える施設はここ、シェムリアップにはたくさんあるらしく、
初めて日本語学校の多さに気づきました。山本日本語教育センターの前でおろしてもらうと、
ちょうど日本人らしき人が中にはいっていったので、声をかけてみると、日本語の先生でした。
鬼さんのことを聞いたのですが、その人も昨日赴任して来たばかりで、
分からないそうなので、職員室まで連れていってもらいました。
職員室には数人の日本人の人がいて、みんな先生のようでした。
みんな鬼さんのことを知っていて、電話番号を教えてもらいました。
それで、電話をかけて、今日行くことになったのです。
行く前に雨が降って来て、たまたま立ち寄った日本料理屋さんが鬼さんのことを知っていました。
その店のオーナーから鬼さんに言づてを頼まれ、働いている日本人の人のカンボジア人の彼氏が、
バイクタクシーで学校まで連れていってくれることになりました。
学校は鬼さんの自宅の2階が教室になっていました。
2階といっても高床式なので正しくは一階というのかな。
そこに、私は5時からのクラスを見学させてもらったのですが、
初級とは思えないほどレベルの高いものでした。人数は一番多い50人のクラス。
制服姿の学校帰りの子もいれば、昼間はアンコールでガイドをやっているという人もいました。
5000冊所蔵の日本語の本の図書室もあって、絵本、雑誌、辞典から小説までなんでもありました。
5月19日(日)第1弾「アンコールワット」
こんにちは。今カンボジア、シェムリアップにいます。
タイバンコクを、朝の6時半に出発して、到着したのはよる8時。
タイとは違うカンボジアのガタガタ道、
バンピーロードを激走する事約12時間ほどのバスの旅でした。
今日はさっそく早起きして、アンコールワットの朝焼けを見に行きました。
タイと、カンボジアの国境、カンボジア側はポンペットという町があります。
タイとミャンマーの境の町、メーサイと同じように、ここでも多くの子供たちが物乞いをしていました。
只やり方が違って、ここの子供たちは傘をさしてずっと延々ついてきます。
カンボジアはとても暑い国なので、かさで日陰を作ってあげたり、
荷物を運ぶのを手伝ってあげる事でだいたい5バーツ(15円)程をねだってきます。
タイ語が少し出来る子供たちだったので、少し会話をしてみると、クメール人の子供たちでした。
イミグレーションオフィスのところで、ビザの発給待ちをしている外国人目当てにみんな集まってきます。
それを警官が警棒で軽く振り払う真似をすると、子供たちはわーっと散って行きます。
結構それを鬼ごっこみたいに楽しんでいるようにもみえました。
子供たちは困った顔を作ってお金をねだってきます。女の子二人がそうして近づいて来たので、
眉毛のところをぐりぐりっとやって、こうしてた方がかわいいー。
といったら笑ってにやにやしてました。
さっきの困った顔は、同情を引くための仕事の顔でした。やっぱり中身は子供です。
日本から持って来た鉛筆や、クレヨンなどは、バンコクからメーホンソンの学校に全部送ってしまいました。
この子達に、お金じゃなくて、何か手持ちでビー玉でもあげたかったのに何もありませんでした。
というわけでかわりに名前を聞いてノートの切れっパしに日本語の名前を書いてあげました。
食べ物でも、お金でもないですが、何かしたかったのでそれぐらいです。
シェムリアップの街をプラッと歩いていたら、偶然にも「日本.カンボジア友好日本
語学校」というのを見つけました。
今日は日曜日なので、暇をみつけて行ってみたいと思います。
松岡享子の「タイで学校を建てる」までの道
2001年8月?2002年2月
タイの学校「写真集」 清水町公民館で講演する松岡享子 大学生日記(月刊ウォーター・ビジョン掲載)