大学生日記 日本大学国際関係学部4年 松岡享子
- 国際支援活動
- 2016/07/01
【日本大学国際関係学部4年 松岡享子】
この大学生日記は、一風変わった大学生活を過ごした女子大生の記録である。思いのままに感じるままに生きる彼女の生き方は、かなり動物的ではあるが、人生のお宝を見つけ出す嗅覚も動物なみに鋭い。インターネットでネットサーフィンをするが如く、様々な世界へ飛び込んでいき、順応していく、彼女が一番活動的であったという大学最後の1年間をご覧下さい。
1 | 平成12年4月号 | 「ラジオへろへろ」 |
2 | 平成12年5月号 | 「新4年生の春」 |
3 | 平成12年6月号 | 「有珠山で考えたこと?」 |
4 | 平成12年7月号 | 「有珠山で考えたこと?」 |
5 | 平成12年8月号 | 「世の中・・・って」 |
6 | 平成12年9月号 | 「必然論」 |
7 | 平成12年10月号 | 「ビバ・カオス」?横浜寿町夏祭り? |
8 | 平成12年11月号 | 「かしこい時間の使い方」?学生編? |
9 | 平成12年12月号 | 「感謝の気持ち、ありがとう」 |
10 | 平成13年1月号 | 「いざ!韓国焼肉ツアー」 |
11 | 平成13年2月号 | 「今年のお正月」 |
12 | 平成13年3月号 | 「わたし」 |
大学生日記 第1弾
「ラジオへろへろ」
日本大学国際関係学部4年 松岡享子
ただいまの時刻、午前9時10分。私はやっと家へとたどり着いた。
今日は日曜日。ラジオの日だ。私は現在大学生である。そして学生でつくるラジオ番組、その名も『日大0号館』を毎週日曜日の6時から7時までやっている。このラジオはやりたい人はどんどん参加できる自由の場だ。よく、お金は出るの?と聞かれるが、もちろんでない。しかし、ここに集まってくる人達は皆真剣である。なぜって、それはここが最高の遊び場であるからである。
ラジオという最高のおもちゃを提供してもらった私達は手を抜くことを知らない。もっと、もっと面白いこと、楽しいことを追求していくと、衝突することも度々である。その為の話し合いが、何時間にも及ぶこともあり、そして今日のように気がついたら朝だったというケースもよくある。(また、話し合いがいつのまにやら居酒屋になって、そのまま朝までコースというのも存在する。)
話し合いが始まるのはだいたいみんなバイトが終わった頃。従って夜中になる。バイト先から直行する人もいてみんなよれよれなのによくけんかする。意見が対立するのだ。それも全て、いかに自分達が気持ちのいい番組にするかということだから本気である。しかし、どんなに言い争いになっても、みんなひそかにこの状況事態をたのしんでいる。まとめていうとみんな熱いのだ。
普通に大学生活を送っていても、自分の意見をこれだけはっきり言える場はない。何もしなくても適当に周りと合わせていけば、それなりに単位も取れてまるで隠居のような大学生活が保障される。でもそれだけでは飽き足らない人々が、その鋭い嗅覚でラジオの場へとたどり着く。そして熱くなりすぎて、人一倍長い学生生活を送っているメンバーも多いこの『日大0号館』。私はこういう、へろへろな人たちが大好きだ。
(まつおか きょうこ)
大学生日記 第2弾
「新4年生の春」
日本大学国際関係学部4年 松岡享子
桜もぽつぽつ咲き始め、すっかり過ごしやすい陽気になってきた。お花見の日取りを考えたり、世の中すっかり春である。しかし、大学4年生の春はそんなお気楽なことばっかりもいってられない。就職活動の春なのだ。三島の日大通りを歩けば、顔なじみのスーツ姿にも良く出会う。同級生が、東京、三島、そして、実家を往復しているそんななか、同じく4年の私は何をしているのかというと、バイトに明け暮れる毎日である。なぜかというと、来年の留学資金をためる為である。
卒業したら、留学するということはつい最近決めたことである。留学は逃げだ、とさんざんいっていたわたしの急な方向転換に周りはすごく驚いた。留学して、何をするのかときかれるが、留学することに、たいそうな理由ははっきりいってない。ただ、行きたいからいく、それだけなのだ。
小さいときは何でもできたし、なんにでもなろうと思えばなることができた。しかし、大きくなるにつれて、いろんな制限がついてきて、思うことさえ、できなくなった。知らない間に自分の進む方向がきめられてしまっているような気がする。留学というのも、そこから脱出したい、単純に新しい環境に自分の身をおいてみたいだけなのかもしれない。一年後のことは、分からないし、何が自分をかえていくのか分からないけど、こうありたいという自分像ははっきり見えている。そこにたどりつくまではとにかくいろんなことをやってみたい。
そんな私に、留学するなら楽だね、と就職活動中の友人はいうが、私に言わせてもらえば、みんなと一緒に、就職活動していくほうが、よっぽど、頭をつかわなくって楽だと思う。とりあえず就職というが何がとりあえずなのだろうか。とりあえず地元の会社に就職して、海外旅行にもいったり、2、3年たったら結婚して会社をやめる。私には、そっちの感覚の方がさっぱり分からない。私の考えは、いかにも大学生という感じで、世の中そんなに甘くはないと思われる方もたくさんいると思うが、今しかできないことを今やりたい、それだけなのだ。自分の直感に従って生きて行きたいなと思う春でした。
(まつおか きょうこ)
大学生日記 第3弾
「有珠山で考えたこと?」
日本大学国際関係学部4年 松岡享子
有珠山へボランティアに行ってきた。3日前に突然決めた。そして気づいたときはフェリーの中。ほんとに何も考えず飛び出した。5月2日の夜、やっと室蘭に到着する。私達が行ったのは伊達市のボランティアセンターだ。本部には各地から集まって来た人たちの為に、宿泊施設などもあり、ついてさっそく、5月5日に子供の日のイベントのことが伝えられた。わたしはレクレーション班に振り分けられたのだが、しかしその内容はほとんど決まっておらず、これから3日間で作り上げていくものだった。
伊達市には3つの避難所が設置されている。そのそれぞれの体育館に何百人という人たちが一緒に同居というかたちで生活していた。ちょうどついて二日間、雨が降っていて、外で自由に遊べない子供達のイライラは、相当高まっていて、そこに入るとぴりぴりした空気を感じた。避難しているのは何も子供や、お年寄りばかりではなく、当然わたしと同じ年代の人達もいた。そんな当たり前のことにも行ってみて初めて気づいた。大人が寝ているその横で、高校生が段ボールを机に、普通にヒゲを剃っていたりするのである。
ボランティアという言葉のほんとの意味は志願者だという話をどこかで読んだ。そしてそれを実感し出したときから積極的に動いている自分を発見する。それはほんとに小さなことである。例えば、避難所にいって、子供と遊んであげるとかいうのは、まさにボランティアの醍醐味というかんじである。だけど、ボランティアやっている人間が食べ終わった食器を一緒に洗ってあげるというのもひとつのボランティアであるし、ハサミを探している人がいたら、持ってきてあげるとか、そういうのもボランティアなんだということに気がついた。わたしが実際やったことといえば、レクレーションのゲームのルールを決めたり、小道具を作ったりと、避難している人たちと接することはまったくなく一日中体育館の中で黙々と準備している日もあった。最初の方は、いったい自分は何をしに来たんだろう、避難所で、直に触れる活動がやりたい、と思わず考えてしまっていたりもした。でもそれこそ本末転倒である。それはただ、かわいそうな人達を興味本位で『見』にきた観光と一緒である。しかし、志願者いう言葉を思い出し、それを確実に実感し出した頃から自分の中から大きく変わっていったと思う。
5月5日、絶好のイベント日和だった。参加者も、最初の最大80人という予想を見事に裏切る130人という大盛況であった。子供達も思いっきりゲームを楽しんでいるようで外を元気いっぱい走り回っていた。
そんな光景を見ているとほんとに来てよかったと感じた。今回有珠山に行ってみて、ほんとにいろんなことを経験した。ここに来て、出会った人々や、交わした会話、そしてそこで考えたことはすべて吸収した。全部自分の為になった。でもこれで終わったわけじゃなく、有珠山で、あの体育館で生活している人はまだいるのである。自分は帰って来れたけど、帰りたくても帰れない人が実際まだ大勢いるのだ。有珠山はまだ終わっていない。むしろ、ボランティアに行ったことよりも、帰ってきてからのほうがより重要だ。
そして、夏に、もう一度有珠山へ行く。(まつおか きょうこ)
大学生日記 第4弾
「有珠山で考えたこと?」
日本大学国際関係学部4年 松岡享子
レクリエーションの準備
有珠山報告第2弾。ということで今回は、前回よりもさらに詳しい具体的な話しをしていこうと思う。
まず、実際のところ現地の状況はどうだったのかというと、コンビニもちゃんと24時間営業していたし、大手デパートもふつうに開いていて、買い物するのになんの不都合もないようにみえた。ただし、この場合の現地というのは私が行った伊達市のことを指すのであり、ほかの場所には行っていないのでわからない。ここで伊達市について少し説明すると、伊達市は直接的には被害を受けていない土地であるが、近隣の虻田町などからの避難民の受け入れをやっている。伊達市などいくつかの有珠山近隣の街には、災害対策本部というものが設置されており、全国各地から来るボランティアの受け入れをやっている。私達ボランティアの活動の場を伊達市にしたのは深い理由はないが、やはりどこの災害対策本部にいくにも電話の1本は必要である。行く時に持っていったものは寝袋と、携帯用ガスコンロ、それと救援物資として毛布2枚と絵本である。とくに寝袋は必需品である。基本的にボランティアというからには衣、食、住すべて自分の力で補えるような装備で行かなければならない。そうでないとかえって迷惑をかけてしまうということになりかねないからだ。しかし、伊達市の場合、災害対策本部にはボランティア専用の宿舎があり、食事も簡素ながら3食分きちんとでた。しかしそれらは被災者に届けられるべき救援物資の中から頂いているわけで、本当に有り難いというか心苦しい話である。私が持っていった毛布は宿舎に泊まるボランティアの人たちの為に使われた。避難している人たちの分はもう足りているようだったが、ボランティアをしている側の毛布がたらず、ずいぶん寒い思いをして寝ている人もいた。
また、対策本部には各地からおくられてきたいろんな救援物資が段ボールの箱にところ狭しと積み上げられていた。こんなにいっぱいあっても整理しているような人は見当たらず、思わず腐るようなものでも入っていたらどうするんだろうと考えてしまった。伊達市には3つの避難所があってそこには実際何百人もの人たちが一緒に生活しているが、ボランティアだからといって土足でずかずか入ることはできない。実際に中にいる人はマッサージをやるボランティアの人が多かった。
対策本部に行くとまずはじめにボランティア登録というのを必ずやるが、その際自分のやれること、特技を書く欄がある。なんらかの免許を持っている人はその特技を活かして配置につくのだが、何も免許なんか持っていなくてもやれることはたくさんある。例えばお年寄りや、子供の遊び相手などである。同じボランティアで、別の大学から来た女の子が、お年寄りの話し相手をやったが、何を話してよいか分からず、ただぼーっと一日を過ごしたというような話を聴いた。私もそのような立場だったら同じことだったろうと思う。少し悲しいけれど、やっぱり、同じ痛みを知っているもの同士にしかその痛みは分からないのだと思った。
有珠山から帰ってきて、もうすっかり日常の生活に馴染んでしまっているが、有珠山のニュースには、すごく耳が反応するようになった。私の身替わりとしておいてきたあの毛布は今でも誰かの役にたっているのだろうか、そんなことをふと考える。この、ふと自然に有珠山のことを気にすることができる。こんな小さなことが大事なんだなと思う。遠くに起こった他人事ではなく、身近かな問題として普通に考えていける。これが私が有珠山にいって得た最大の収穫である。
(まつおか きょうこ)
大学生日記 第5弾
「世の中・・・って」
日本大学国際関係学部4年 松岡享子
この1ヶ月の間、立て続けに大きいイベントがあったため、それらで気力を燃焼させてしまった私はすっかり腑抜けになってしまった。なにか一つ、イベントが終わるたびにおとずれるこの脱力感。大学生には行かねばならない仕事もない上に、学生の本分である勉学の方も、それは自主性にまかされている為、自主休講という手をとると、もうあとは拘束力をもつのは、せいぜいバイトぐらいなもので、いったん生活が崩れてしまうともう目も当てられない。ただ家とバイト先との往復だけ。そんな生活が続き、日付け感覚もなくなったある日のこと、ふとテレビをつけてみると、いきなり知った顔が画面いっぱいにアップになった。驚いてもう一度よーくテレビを注視する。民主党細野ごうし。そう、今日は6月25日、選挙投票日だったのだ。一瞬でその顔は消え、慌てて他のチャンネルをまわす。あった。しかもその写真の横には赤い花。当選確実のしるし。それから30分程テレビに釘付けになっていると、細野ごうし、当選確実の速報が入った。感動する。
私は以前、「細野ごうしと歩いてまわろう伊豆一周キャンペーン」に参加したことがあった。伊豆を本人自ら自分の足でまわり、伊豆を知ろうという試みだ。私が参加したのは東伊豆の時で、平均4、5人で歩いた。その後、ゴールデンウィークに西伊豆をまわってこのキャンペーンは完結するのだが、私はその時有珠山の方へ行っていたので参加することは出来なかった。というわけで、私は途中からあまり関わっていなかったのだが、同じく一緒に参加した大学生のなかには最後まで選挙活動につきあった人もたくさんいる。細野ごうしの支援者には多くの若者、大学生が参加していて、そこがたいへん魅力的だ。そのなかのひとりに、今回の感想をきいてみた。大学生から見た大人の真剣なお祭り騒ぎ、選挙について。
彼が選挙に参加した理由は単純明解、おもしろそうだったから。民主党ってなにそれ、という感覚の彼は感じるままにおおいにやった。大好きなマウンテンバイクにまたがって、「投票へいこう」とかかれたTシャツに、ポスターを挟んだメッセンジャーバックを背負った彼は大声で声を張り上げながら町中をかけめぐる。それも1台ではなく、有志で結成された大学生中心のマウンテンバイク部隊も一緒に。マウンテンバイク部隊の走る彼らを羨望の眼差しで子供達が眺める。
12日間思いっきり遊ばせてもらった、と彼はいう。事務所に集まる人々はそれこそ年齢、職種、まったく異なる。様々な人が集まる場所の、そこに行けば誰かがいる、という妙な連帯感も心地よさそうであった。そして当選。彼はすっかり燃え尽きて、そして腑抜けになった。彼も私も正直いって、まさかほんとに当選するとは思っていなかった。世の中そんなに甘くないと思っていた。でも当選した。
その結果、私たちが出した結論。それは、世の中けっこう甘かった。ということ。世の中そんなに甘くないといって、おびえ、最初からやりたいことを諦めている人たちにいいたい。やればできる。やれなかったのは少しでも疑ってしまったから。自分がやりたいことを、本当にやれると信じて疑わなければ実現するんだ。脳で、想像したり、イメージすることは本当に現実の世界を動かすこともできる力をもっていること。念は強し。これが今回の選挙や、その周りのいろんな人たちを見て思った感想だ。
こんなふうに考えている私は甘いのだろうか。いや甘くないはず。といってあたりをみわたすと、私が腑抜けになっていた時にために溜めてしまったレポートの山。こちらの方はいくら強く念じたからといって消えてはくれず、どうやらそれとこれとは別の話だったようである。
(まつおか きょうこ)
大学生日記 第6弾
「必然論」
日本大学国際関係学部4年 松岡享子
ところで私は、「必然論者」である。これが私なりの結論なのだが。なぜいきなり。
近頃、私はお台場の中にあるアミューズメントパーク「メディアージュ」で似顔絵描きをやっている。5月中旬にあった東京ビックサイトでの、東京デザイン・フェスタというイベントで、絵を描いていたら声を掛けられ今に至る、というのがそもそものきっかけである。(フー!カタカナが多い!)
この企画はソニーのもので、集められた似顔絵や(アートパフォーマー)総数8名。この面々がまた超個性的で、私は一番最初の説明会の時から度肝を抜かれてしまった。
年は自分と同じ様な大学生ぐらいから、30半ばの大人まで実にいろいろな人がいて、それぞれやっていることがこれまたすごい。
技術はそこそこ、でもとりあえず友達二人と広告会社をつくってしまった24歳男。原宿表参道で、警察の目を盗みながら虎視眈々と似顔絵描きの機会を伺う30歳男。某有名アート系専門学校に忍び込み、掲示板から、有名広告会社からの依頼物件を全てはがし、そして独占する21歳女。と、超強力的で多才な人たちなのだ。
そんな人たちの目は一様に違う。路上で似顔絵をやってたら声を掛けられ即デビュー。公募に送った作品がいい賞もらって一攫千金。など一見夢のようにみえるタナボタを本気で狙っているのだ。そしてそういうキラキラモードの目を持っているこの人達の周りには、不思議とまたそのような縁が回っているらしく、ちゃんと次のステップへと導かれるように進んでいくのだ。
実際、この企画でパソコンを使った似顔絵の新しいスタイルを模索中だった24歳広告屋は、たまたま通りかかった大手広告会社に目を付けられ、翌日はもっと割のいいそっちの仕事へひっぱられてしまった。
こういう一見すると偶然で、タナボタ的な事を私は決して偶然であるとは考えない。とにかくやることをやっていれば何事も自然と上手くいくようにできている。全て自分次第。必然なのだ。
「ガンバルヒトのマワリニハ、花がサク」これは最近私のお気に入りの言葉なのだが、これに少し私味を付け加えると、「ガンバリタイト思ったトキにガンバレバ、自然トマワリニ花は咲く」という感じだ。
頭ではなく、ココロとカラダが今だ!と感じたときに動くのが結局一番。そういう理由付けの下、今日一日だらだらとココロの赴くままに過ごしてしまった私はただのナマケモノなのか?
ほんとに人生紙一重である。
(まつおか きょうこ)
大学生日記 第7弾
「ビバ・カオス」
?横浜寿町夏祭り?
日本大学国際関係学部4年 松岡享子
横浜の寿町へ行って来た。その場所を知っている人の中で、まず大半の人は怖いというイメージを持っていることだろう。実際、そこに住む人々の約80%が病や何らかの依存症を持っており、低賃金労働者や、いわゆるホームレスと呼ばれる人々が自然と集まってきて生活している町でもある。
私が寿と知り合うきっかけとなったのは、去年の冬、横浜駅で毎週行われていた水曜パトロールである。横浜駅に住む野宿者は数多い。しかし、夜12時になると、外の寒空なんてお構いなしに義務的にシャッターは閉められ、彼らは追い出されてしまう。そんな仕打ちに対する抗議と、寒さを少しでもしのげるようにと、毛布を配っていたのが水曜パトロールだ。しかし三島、横浜間ともなると、毎週はとても行ってられない。だんだん足は遠のいていったのだが、「ぶっとび娘」という愛称で私を妙に気にいってくれていたリーダーのおかげで、連絡だけは絶えることがなかった。
そんな感じで、私は寿の夏祭りの話を聞いたのである。最初は寿と聞いても場所もわからず、とりあえず駅で降りたもののうろうろしっぱなし。さて、どうしようと考え
ていた。すると、前の方に昼間っからお酒を飲んで酔っぱらいつつ暴言を吐いているおっちゃんを発見。なんとなーくこの人について行けば寿につけるかもっと思って後をつけることにした。目の前にはランドマークタワー、横に行けば中華街。ほんとにこんなところにあの噂の寿があるのかと半信半疑で、おっちゃんのあとをついていき、ふと横路地に入っていくと、そこには今までの綺麗な大通りとは全くの別の世界が広がっていた。なんだ、ここは!!?ぎらぎらとした視線が容赦なく突き刺さる。お前はよそ者。そう言われているようだった。正直言って怖い。ここはどっかで見た光景。そうだ、タイの裏通りのあのごちゃごちゃした感じにそっくりなのだ。懐かしいような逃げ出してしまいたいような変な感じ。これが私の寿第一発目だったのである。
しかし、そこで、屋台に出すゴーヤチャンプルーの仕込みをやったり、お弁当を運んだりとせこせこ祭りの準備で寿を走り回っているうちに不思議とこの町になじんでしまった。結局ただの祭り見物として、その日に帰るつもりだったはずが、他のお手伝いの人たちにまじって泊まりこみ、次の日も当たり前のような顔をして後かたづけをやっていた。
そしてこの最終日が私にいろんなものをくれたのだ。やぐらも解体し、全ての後片づけが終わったとき、色鮮やかな沖縄の衣装を身につけたエイサー隊が現れた。2種類の太鼓と、あの沖縄独特の歌が祭りの後の夜の寿に響いて涙が出るほど心にしみた。それぞれ立場や人生や年齢や、みんな全く違うけど、この場所に集まってきたというただそれだけでみんな同じように、静かに耳を傾けている。それから先はうって変わって飛び入りオッケーの大エイサー。寿の通りを踊りながら練り歩き、歌いたいものは歌い、叫びたいものは叫ぶ!!何もしたくない人は、何もしなくたって誰も何も言わない。全ての固定概念や、束縛を取り去って、混然と一体化していく。私はとなりの女の子と何回も何回もカオスだー!!と叫んで笑い転げた。
頭がバカになっていくにしたがって心はどんどん突き上げてくる感じ。こんなに純粋になれたのはほんと久々で感動だった。
こんな感動話をしても、ホームレスという言葉にひっかかって変な顔をする人も多い。
私はそんな世間一般の価値観・常識で人を決めつけるヤツなんて絶対許さない。と、まあこれは私が勝手に思ってることだから何も言わないでください。
結局、言いたいことは、そういう束縛や、いろんなしがらみとかから、こういういろんな人と出会ったり体験していったりすることで自分が脱皮していってるような気がする、ということを言いたいのです。つまり、子供化してるってことで。
おしまい。(まつおか きょうこ)
大学生日記 第8弾
「かしこい時間の使い方」
?学生編?
日本大学国際関係学部4年 松岡享子
ある日の夜中、ぼーっとしていたらふとテレビに目が止まった。そのままじっと見ているうちにある衝動にかられる。これ、色ぬりたい!いったんそう思ったらもう止まらない。しかもなんと都合の良いことに、うちには大昔に買った白いペンキまであった。
さっそくコンセントを引き抜いて床に新聞紙をひき、ペンキの缶を開けて準備万端、と思ったら肝心の「はけ」がないことに気づく。しかしここまできたのにやめるなんてもったいない、でもコンビニに「はけ」なんて売っているわけがないし。
そうこう思い悩んでいるうちにひとつの考えがひらめいた。そうだ、人間には手があるじゃないの。手で塗ろう。ペンキに手を突っ込んで塗り始める。これがなかなか気持ちよく、保育園の時によくやった泥遊びや水かけっこの感覚を思い出す。
だんだん調子に乗ってきて、つい悪のりしてしまう。次の獲物を物色すべく、部屋中をぐるりとみわたす。そして発見、次は君の番だ冷蔵庫。「冷蔵庫のドアは、何にも貼らず色は白であるのが良し」とドクターコパも言っていたではないか、と変な理由付けを自分の中で完結させ、早速改造にとりかかる。塗り続けること約2時間。そこには燦然と白く輝くテレビと冷蔵庫があった。
白いテレビはどんなもんかとコンセントを差し込みスイッチを入れる。電源の赤く点灯したランプがきれいだな、と思ったのもつかの間、目がてんになる。映像がでないのだ。ザーッとくらいいってもよさそうなものの、うんともすんとも言わないただの真っ青な画面が広がるばかり。配線もちゃんと元通り戻した。これはどうやらは入っては行けないところまで白くしてしまったらしい。こうしてうちのテレビは見事にただの箱と化してしまった。
と、まあ、やたらと前置きばかりがながくなってしまったが本題はここからである。テレビのない生活を続けて約一ヶ月近くたったが、結構いけるもんだなーっということである。なにを大げさなと思われるかもしれないが、学生の一人暮らしにとってテレビがないということは結構痛いことなのだ。
しかし、テレビがないと本当に時間を有効活用できる。読みたくっても今まで時間がない、という理由で読めなかった本も一気に読めたし、なによりもちょっとしたことにすごくこるようになった。例えばカレーを食べるにしても、食器から部屋の雰囲気、BGMに至るまでインド風にしてみたりとか、こういう風に時間が過ごせるのは本当に贅沢だなーと思う瞬間である。
また、唯一の時計機能を持っていたのがテレビだったがために、よけいに時間、曜日感覚がなくなってしまった。(うちには一つも時計をおいてないのだ)朝早くから定時の仕事もあるわけでもないので、それこそ一日、という感覚もなくなってしまう。やりたいように自分の感覚で一日を過ごす。
やっぱあのとき手で塗ったのは正解だったな、映らないテレビを前に一人にやにやしている今日このごろなのである。
(まつおか きょうこ)
日本大学第50回富桜祭最終日、私たちの「原」がやっと完成した。いいようのない喜びにつつまれる。
「原」(げん)とは富桜祭というチャンスをつかって、何か表現しようとたくらみ、集まった有志団体である。これは部活とは違いプロモーターという立場で学校側から5万円の補助金がもらえる。その5万円を使って私たち(私)が表現しようとしたのは子宮をイメージした真っ白い空間である。「絵」や「写真」があって、それを飾るためにスペースをつくる、というのとはまた違う。それは写真部や美術部に行けば立派な作品が見られるのでまにあっている。『人がどれだけ気持ちよくなれるのか』それがコンセプトである。わたしたちの場合はあくまでも空間がメインなのである。それを実行するために音、光、そして香りにこだわった一面真っ白い世界を創造した。そしてこの中に入ってもらった人がそれぞれに感じること、それが作品なのである。しかし、そうはいってもただの空間である。
人に伝えることがこれほど難しいと痛切に感じたことはこれが初めてではないだろうか。写真、オブジェなどの展示物は集まっているのか?、ここはいったいなにをしたいのか?等同じような質問を数多くの人から聞かれた。最初はこのプロジェクトを手伝ってくれた人でさえもほとんど意味不明のことであったであろう。ほんとに自分の言葉のたらなさに嫌気がさしてしまう。こう、自分の中にははっきりとイメージができあがっているだけにもどかしい。人にうまく伝えられないから作業も進まない。どんなふうにしたいのか、わかっているのは自分だけ、でもそれをどうやって現実にするのかそのノウハウはひとりでかんがえてもわからないし、やり方もわからない。時間は無駄に過ぎていき本番まで後何日、というカウントダウンされていく看板を見てはむしょうに苛ただしかった。今までは自分がやりたいと思ったことを突発的に初めておわる、それで終わりでよかった。しかし今回は自分以外の多くの人を巻き込み、そしてお金も絡んでくる。大きなプレッシャー。
富桜祭は一日半の準備期間を経て3日間つづく。その初日の準備期間がやってきた。やはり私の無計画性がもろに裏目に出て数々の問題が発生した。しかしそんな中でもそれぞれ富桜祭で忙しい中暇を見つけては手伝いに来てくれた面々は知恵と労力を使ってくれることを惜しまなかった。そんな姿を見ていると、ほんとにありがたくって、涙が出そうになった。それでもまだまだやること、問題は山積みで結局富桜祭当日には間に合わず、しかしもうこうなると後は開き直ってしまい、とことん妥協無しで、自分たちのペースでやることにした。
そして3日目、最終日、午後。完成。イメージ通りの空間、イメージ通りの音、そしてイメージ通りの見せ方。今までバラバラだったものがすべて一つにまとまってこれはもう一日の命だけではあるけれどそれもはかなくていいもんだと思った。
すごい自己満足の世界。それに真剣につきあってくれた人たち。それだけでもういっぱい。ありがとう。
(まつおか きょうこ)
日曜日、いつものようにラジオが終わり、反省会のあと某居酒屋へとなだれ込む。イカの一夜干しにビールがすすみ、たわいのない話に花が咲く。いい気分に酔っぱらい、ほほも高潮してきた頃に誰かが焼肉食べたいと言い出した。焼肉といえば韓国。じゃあ行こう。なんてわかりやすい単純明快な思考回路。どうせ韓国行くのなら、携帯電話で日本と韓国をつなぎ、ラジオの電波にのっけてしまおうということで出発は早速2週間後の日曜日と決まった。と、ここでおわるのがよくある居酒屋での酔っぱらいのたわごと。しかしここで少し事情が違ってしまったのはこれは馬鹿な大学生によるたわごとであったということである。いったんやるといったからにはやってしまうのである。
話は変わるが私は大小たくさんの夢というか野望、をもっている。その中のひとつに二十
歳ぐらいの若いときに着物を着用して外国を旅するという項目があった。そしてそんな話をちょうど日曜の昼間に沼津のカレーやでカレーをほうばりつつ語っていたのだった。まさかその日の夜にはそれが現実のものになるとはしらずに・・・!だから韓国行きの話が出たときに即決で「じゃあ着物で行く!」と叫んだのも酔っていたからではなく私の中ではごく自然な流れの中から生まれた発言なのである。そして次の週末には実家熊本へはるばる着物を取る、ただそれだけのために帰るという行動も当たり前だったのである。着付けも全くわからない人が何を寝言を言ってるのかと母にたしなめられても、おなかが痛くなるほど祖母に笑われても私の決心は変わらない。だって本人にとってはいたって真面目な話であるからである。そんなことよりも私に許された48時間にも満たない熊本滞在時間中に一人で着物が着られるようになるか、そっちのほうが大問題であったのである。
まあどうにか形にはなってきた.。そして三島に戻り、今度は韓国取材でいったい何をやるのかという打ち合わせが続いた。ラジオという視覚に訴えないメディアを通じてどれだけ韓国をリスナーに感じ取ってもらえるか。それが大問題ではあるのだが・・・『韓国で今はやっている情報を調べて流すか?』う?んありきたりだぞ。『韓国の今について向こうの若者と対談する?』こ、こむずかしい・・『韓国のラジオ局と日本の放送局をつなげて..そのためには回線が必要で・・』いったい何語?といった感じで話はどんどん難しくなるいっぽうでさっぱりまとまらない。ただ韓国で焼き肉が食べたいだけだったのにー!!せっかく韓国にいくのだからと考えるから頭が硬くなってしまうのだ。韓国といってもほとんど日本と変わらないであろう。ほんのちょこっとそこの広小路あたりの焼き肉やに中継に出かけましたぐらいの勢いで韓国中継もやりたい.。なにしろ時間もないのだし、ということで今回の韓国中継はコーナーとして10分ぐらいのものにおちついた。日本語を学んでいる向こうの大学生と一緒に同じテーブルをかこみ、飲み食いしているところを電話中継でつなぐのだ。すごく普通である。でもこの感覚は結構重要なはずと勝手に思っている。着物で外国へ行くことも別にに日本人だからとか、日韓交流とかそういうのを狙ったわけではない。普通に洋服を着る感覚で、だからごてごて派手なものではなく、普段着のような軽い感じの着物にしたかった。
実際韓国に限った話では、私たち九州人にとってはものすごく身近な国である。なんてったって東京にいくよりもお隣の国韓国へ行ったほうが近いし安いのである。博多駅などは案内は韓国語表記が英語よりも当たり前にどうどうと居座っている。
外国だからといって気張りたくない。たまたま国籍が韓国の大学生と一緒にご飯を食べて飲んで騒いで友達になってくる。そして次の韓国取材に協力してもらうのもいいだろうし、自分たちのラジオに取り込んでスタッフになってもらうのもいいかもしれない。そうするとうちのローカルラジオは世界へとネットワークを広げることになる。日本へきたら家へとめてあげよう。いろんなところであそぼう。などとまたもや夢はふくらむばかりで、明日出発するのである。
(まつおか きょうこ)
最近この紙面で取り上げられたように、横浜に寿町という町がある。8月の寿夏祭りに続き、今年の正月は第27次越冬闘争に参加してきた。越冬とは文字どおリ「冬」をこえる戦いである。一人の餓死者、凍死、病死を防ぐためにプレハブ小屋が建ち、雑炊などの炊き出しがおこなわれる。今年は12月27日から1月9日の長丁場である。この「越冬」に今年はじめて参加した。
1月1日、寿町に潜入。すでにもちつき大会が始まっていてプレハブの前にはおっちゃん達が長蛇の列を組んでもちがつきあがるのを待っている。さっそくもちつき班に混じって動く。隙を見て杵を取りへっぴり腰で降りおろすと周りから大笑いされる。「こうつくんだ」とおっちゃんから御指導を受けつつがんばる。夕方はプレハブ宿泊者にお弁当を配付する。そのあと支援する側、される側をこえた交流会が始まる。夜は夜でパトロールといって横浜駅周辺をみかんや熱々のスープを持っていって配って歩く。ただ配るだけでなくいろんな話をきく。そして「パト」から帰ってくると今度は三班体制で不寝番という寝ずの番をする。朝は早朝から炊き出しの準備のための大量の野菜の切り出しが待っている。このように結構体力勝負なのである。
このように私の2001年のスタートは寿で慌ただしく過ぎていったのである。そして第2日目は大量の野菜と共にはじまった。切っても切っても減らない野菜。200食をこえる食事を作るのだから当たりまえである。ふだんあまり料理をしない私でもこれだけ切れば
だんだん調子も良くなってくる。しかしおっちゃん達の鮮やかな手さばきにはかなわない。そのあと朝のお弁当を配り終わるとすこし暇になった。ぷらぷらしてるとバリカン片手に準備している人を発見。どうやらこれから髪を切るらしい。去年からこういう奉仕活動があったらしく今年もこれからやるらしいのだ。さっそくやってみようと髪の毛がつかないように穴あきゴミ袋を頭からかぶり、バリカン片手にいざ丸坊主、あっそういえばバリカンって使ったこと無い、、、。こういうことは寿の人生経験豊かなおっちゃん達の方がよっぽど良く知っているのだ。周りからいろんな支持、やじを飛ばされ丸刈りにされているおっちゃんを不安にさせつつ、ばりばり坊主に刈っていく。こうやっていろんな体験をしながらだんだんと馴染んでいくと、顔見知りのおっちゃん達も数人できて私にとって離れがたい町となっていくのがだんだんわかる。一番嬉しかったことは、髪を切ってあげたおっちゃんに、髪を切ってもらってなんか明日も明るくなってきたよ、といわれたことだ。まったくド素人の私にそんなにいってもらえて嬉しかったというよりおどろいた。なんか役に立ってるんだなという実感が湧いてくる。それにしてもここへ来るとほんとにいろんな人と出会える。路上で暮らすおっちゃん達ももちろんだが、ボランティアで全国から集まってくる人たちもかなり濃いのだ。なにかわけありの人、福祉を志す大学生、普通の高校生、様々である。そんななかでひとりとても仲良くなった人がいる。彼は青森からバイクで日本縦断中の19歳で横浜でバイクがこけてしまった。バイクを修理するにも一週間かかり、駅で時間を潰していたところ、パトロール中の人に拾われ寿にながれついたのだ。19歳とはとても思えない数々の修羅場をくぐり抜けてきているらしく、話すネタも面白い。妙に寿と馴染んでいて、思えば不思議な縁である。大学では味わえないいろんな人との交流を通して自分をよく考えはじめた。自分は何をしたいのか、どうしたいのか、ほんとはどうなりたいのか、最近考え中の大学4年の冬なのである。
(まつおか きょうこ)
あなたはだれ?世界はどこからやってきた?
最近一番はまった本「ソフィーの世界」の最初の言葉。
WHO am I?
What do I want?英語の授業、オーストラリア人の先生からの最後のはなむけの言葉。
卒業したらどうするの?「きょうちゃん」はどこへいくの?
挨拶代わりに交わされる耳にタコのこの言葉。今まで好き勝手やってきた大学生、松岡享子もついに卒業(?)である。偶然なのか、必然なのか、こんな時期に立て続けに重みのある言葉に遭遇する。ちなみに「ソフィーの世界」は哲学の本である。前からずっと読みたかった本ではあったのだが、なにげに手にとって読み始めると、のっけからこれである。こんな時期だからこそ、気になったのかもしれない。とっくにその問いを考え始めた頃に、Who am I?(わたしはだれ?)というこの問いかけを常に自分にしながら生きろと先生のお言葉があり、私はますます考え込んでしまったのである。
そこで私を、私なりに分析してみた。結果:
私は駄目人間です。時間にルーズです。お金にもルーズです。あちらこちらに目移りします。そして結局何も決まりません。ささいなことに幸せを感じます。妥協も結構します。すぐかっとなります。でも表には出しません。だらだらするのが嫌いと言いつつ、けっこう好きです。言ったことはすぐ変わります。小心者です。猫が好きです。
いいところなんて一つもないじゃないか、なんて思わない。なぜならば欠点も、何もかもすべてひっくるめて、私はこういう人間であるからだ。開き直りでもなんでもなく、私は駄目人間だ。しかし、これを自分で受け止めているので、コンプレックスなど何もない。
私は人から、なんでそんなに根拠のない自信に満ちあふれてるのかよくきかれる。確かに私は自信にあふれている。こう書くとずいぶん偉そうに聞こえるが、他人と比べてどうこうという自信では決してない。自分はこういう人間だと認めていることが、人から見ると自信たっぷりに見えるのだろう。しかし、何回も書くが、私は駄目人間なのである。
しかし、自分のことなのに、わかったつもりでいて実は何もわかっていない。さっきの自己分析もたった今のこの瞬間の自分である。私は次々と変化するし、今日でも明日でも、この次の瞬間でさえ、私は違う自分であるのだ。
自分はなにものか?という問いともう一つの大きな問題。自分は何をやっていくのか、ということ。私のまわりは何がやりたいかわからない人たちだらけである。
卒業論文も書き終わり、後は引っ越しの準備だけの三島を去っていく人たちは、これが一生の別れかのように飲み会や鍋を開催する。飲むのは嫌いじゃないので行くけれど、同じ愚痴や、同じ言葉にうんざりすることばっかりだ。
「仕事には全然興味がないけれど、とりあえず2、3年働いてお金たまったらやめて好きなことをやる。」
(本当にやりたいことなら、今すぐやれば。)
「業種なんて、結局ただのOLになればどこでもやること一緒だし。だったらちょっとでもお金がいいとこでしょ。」
(完全におわってる…)
やりたいことが、お金がないからできないなんて、絶対嘘だ。そんなの動くのが怖くて動けない人たちのいいわけである。世の中お金がそんなに大事なものなのか?そういう風に洗脳されてしまってるだけなんじゃないの?大体そんな程度の覚悟で、今までの安定していた会社生活を自分から打ち切れるわけがない。会社で死ぬほど働いて、疲れて寝る生活なら、好きなことをやって、死ぬほどくたくたしたい。
私はやりたいことはわからない。(本当はわかっているのかもしれない)だけど、とりあえず感じるままに動くのみである。
ここまで書いてきたことはほとんど自分に向けて書いたようなものである。これまでの大学生日記を振り返って読んでみると、結構毒をはいている。大学生ではなくなっても、この感覚を忘れないように自分自身に対して書き留めておきたかったのである。
最後に:
どこにいくの?ときかれたら、地球にいます。と答えます。なにするの?ときかれたら、心のおもむくままに。と答えます。
大学生日記はこれで最終回です。今年は多分大学生ではないから。それではみなさん、ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。(まつおか きょうこ)
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作成日2002年6月25日